「智恵子抄」を中心として、光太郎詩にオリジナルの曲をつけて唄っているシャンソン歌手のモンデンモモさん。2日の第59回連翹忌にもご参加下さいました。

月末にミニミニライヴだそうですのでご紹介します。 
期 日 : 2015年4月26日(日)008
会 場 : 澤村宅 (練馬区光が丘7-6-7-304 ホテルカデンツァ近くの棟)
時 間 : 15:00~16:30 (14:50開場)
料 金 : 3,000円(おみやげ付)当日集めます

予定曲  詩と歌とお話による「やっぱり智恵子抄」
       郊外の人に から 亡き人に まで
      カンツォーネ「コメプリマ」「君に涙と微笑みを」
                「砂に 消え涙」
      他
 うたとお話  モンデンモモ               
 ピアノ      砂原dolce嘉博


当方、翌日から岩手花巻で、高村光太郎記念館リニューアルオープンに行って参りますが、景気づけに(笑)こちらにも足を運びます。

皆様もぜひどうぞ。


今日は都内で複数の用事をこなして参ります。



【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月16日

昭和20年(1945)の今日、智恵子の親友で作家の田村俊子が歿しました。

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俊子は智恵子より2歳年長。智恵子同様、『青鞜』メンバーでした。また、やはり智恵子同様、日本女子大学校に通っていましたが、中退。在学中には智恵子との接点はなかったようで、智恵子とのつながりは『青鞜』を通してでした。しかし、智恵子も俊子も『青鞜』の女性解放的なスローガンにはあまり関心がなく、いわば異端児同士で馬が合ったのかも知れません。

俊子の小説には、智恵子との間に軽い同性愛的な要素があったと書かれていますが、どこまでが真実か、何とも言えません。ただ、明治45年(1912)には、元は光太郎が経営しており、知り合いの画家に譲渡された神田の画廊・琅玕洞で俊子と智恵子の二人展「あねさまとうちわ絵」を開催したりしています。

俊子の最初の夫は作家の田村松魚で、光太郎と仲が良かった人物です。しかし離婚、そして次の夫になるジャーナリストの鈴木悦を追ってカナダに移住(大正7年=1918のことで、光太郎智恵子は横浜まで見送りに行きました)、彼の地で20年近くを過ごします。

その間に智恵子は心と肺を病み、歿しました。俊子が身近に居続けていたら、智恵子の生涯もかなり変わっていたような気がします。

さて、俊子が歿したのが70年前の今日。4月16日は俊子デーということで、歿後もいろいろと行われています。

昭和36年(1961)、俊子の墓がある鎌倉東慶寺に文学碑が建立されました。

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智恵子も登場する小説「女作者」の一節が刻まれています。曰く、「この女作者はいつもおしろひをつけてゐる この女の書くものは大がひおしろひの中からうまれてくるのである」。

同日、この碑の前で第一回田村俊子賞授賞式が行われました。受賞作品は瀬戸内晴美「田村俊子」。ややこしいですね(笑)。

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同賞は17回で終了したとのことです。