新聞各紙で光太郎智恵子の名前が出るのですが、速報性のないものは、このブログでの紹介を後回しにしてしまっています。ネタが少ない時にはすぐにでも紹介していますが、このところ、書くべきネタが多すぎて少し困っています。

ネタの少ない時期なら3回に分けるところなので、もったいないと思いつつも、あまり後回しにするのもよくないので、3本まとめてご紹介します。

まず、2日に執り行いました連翹忌がらみで、『日本農業新聞』さんの一面コラムです。

四季 2015/4/2

 公園などでレンギョウの黄色い花が満開である。桜やコブシよりも早く咲きだし、春の 先駆け役となっている。きょうは、この花が好きだった高村光太郎の命日、連翹(れん ぎょう)忌▼今年は没後59年。太平洋戦争中、多くの戦争賛美詩を書いた。結果として若者を戦場に送った自責の念にかられ、戦後は岩手の山村で独居生活を送った。その時に書いたのが連詩『暗愚小伝』▼帝国憲法発布の日の思い出から起こす。土下座する人々と見た天皇の行列。「眼がつぶれるぞ」と頭を押さえ付けられた。「禁廷さま」が文明開化だというから切りたくないちょんまげを切った祖父。御前彫刻に緊張する父や母。こうした家に反抗、パリでようやく魂の解放を得たという▼だが「真珠湾の日」にはしみついた過去が噴出する。<…/昨日は遠い昔となり、/遠い昔が今となつた。/天皇あやふし。/ただこの一語が/私の一切を決定した。/…/父が母がそこに居た。/…/陛下が、陛下がとあへぐ意識は眩(めくるめ)いた。>▼戦前の特殊な雰囲気の中で「いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られていたかを見た」と光太郎。昨今事もなげに「八紘一宇」を口にする政治家がいる。あの時代を繰り返してはならないという『暗愚小伝』は今こそ読まれるべきだ。

まったくもってその通りです。


続いて先月26日の『日本経済新聞』さん、夕刊の「プロムナード」というコラム。雑誌『三田文学』編集長の若松英輔氏が、「語り得ない彫刻」の題で、光太郎の花巻郊外太田村での独居生活を長文で紹介して下さいました。

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これもまた光太郎の内面によく踏み込まれています。


最後にやはり4月2日、連翹忌の日の『朝日新聞』さん。「ザ・コラム」というコーナーで、駒野剛編集委員が執筆されています。題して「福島の空 不条理と闘った先人」。

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 無人の保育所、横倒しになった自動車、鉄柵で封鎖された家……。3月11日、1年半ぶりに訪ねた福島第一原発周辺は、時間が止まったまま、朽ちていた。
 大震災の被災地でも、原発被害を受けなければ、曲がりなりにも復旧、復興が進む。しかしFUKUSHIMAは違う。

と始まり、東日本大震災から4年経った福島の現状が語られます。

さらに福島同様、国策の犠牲となった(今も続いている)沖縄出身の詩人・山之口貘、太平洋戦争開戦を必死で止めようとした二本松出身の歴史家・朝河貫一の紹介が続きます。

そして結び。

 戦争は止められなかった。闘いは徒労だった。だが、混迷する権力に付和雷同せず、自立して考え、行動した市民がいたことを、日本の歴史に刻んだ意味は大きい。
 「日本が真の民主社会を願うなら、とりわけ、民主主義の政治形態は、市民一人一人が良心に対する危機感を強くし、個人的な責任を果たすことでしか、打ち立てられない、私はそうかたく信じます」
 朝河の言葉が力を失わないのは、いまだ「真の民主社会」から遠いからだろう。
 二本松市に立つ朝河の墓標から安達太良山(あだたらやま)を望んだ。高村智恵子が夫、光太郎に見たいと言った「ほんとの空」と同じ青が、福島に戻るのはいつだろうか。


ほんとにいつのことになるのでしょうか……。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月5日

昭和32年(1957)の今日、筑摩書房から『高村光太郎』が刊行されました。

昨年逝去された写真家で光太郎の令甥・高村規氏撮影による、最初の光太郎彫刻写真集です。

編集委員は今泉篤男、菊池一雄、高村豊周、土方定一、本郷新。各氏と、十和田湖畔の裸婦群像(通称「乙女の像」)の関係で谷口吉郎の文章、若き日の北川太一先生作成の年譜も掲載されています。