昨日の『福島民報』さんの一面コラム「あぶくま抄」で、智恵子に触れて下さいました。
あぶくま抄(3月20日)
二本松市の地酒の瓶に「純米酒」の文字が躍る。やや細めだが凜[りん]とした文字に、作者の面影が、ほの見える。同市名誉市民で文化勲章受章者の日本画家、故大山忠作氏が描いた。
30年以上前、還暦の安達太良登山に挑んだ際、幼なじみの酒蔵関係者の頼みを快く引き受けた。「父にとって安達太良山は故郷の象徴。いつも感慨深く眺めていた」。長女で女優の彼女は語る。父の古里に美術館を造る話が持ち上がったころ、彼女は初めて安達太良山に登った。高村智恵子と父が愛した「ほんとの空」に魅せられた。
震災と原発事故が、愛する空を曇らせた。「復興に役立ちたい」。彼女は、大山氏ら名前に「山」が付く日本画の大家5人の作品展を父の美術館で開く。市内に泊まり込み毎日、解説を買って出た。市の観光大使として県内外で風評払拭[ふっしょく]に奔走する。胸に「福が満開、福のしま。」のバッジが輝く。父の古里を今、自分の古里と思う。
今夏の松竹創業120周年特別公演で久々の舞台に立つ。艶[あで]やかな舞踊と家族の絆を描く名作だ。県内でも上演する。二本松の仲間は応援計画を立てる。「ほんとの友」の心は純米酒のように優しく、そして温かい。
30年以上前、還暦の安達太良登山に挑んだ際、幼なじみの酒蔵関係者の頼みを快く引き受けた。「父にとって安達太良山は故郷の象徴。いつも感慨深く眺めていた」。長女で女優の彼女は語る。父の古里に美術館を造る話が持ち上がったころ、彼女は初めて安達太良山に登った。高村智恵子と父が愛した「ほんとの空」に魅せられた。
震災と原発事故が、愛する空を曇らせた。「復興に役立ちたい」。彼女は、大山氏ら名前に「山」が付く日本画の大家5人の作品展を父の美術館で開く。市内に泊まり込み毎日、解説を買って出た。市の観光大使として県内外で風評払拭[ふっしょく]に奔走する。胸に「福が満開、福のしま。」のバッジが輝く。父の古里を今、自分の古里と思う。
今夏の松竹創業120周年特別公演で久々の舞台に立つ。艶[あで]やかな舞踊と家族の絆を描く名作だ。県内でも上演する。二本松の仲間は応援計画を立てる。「ほんとの友」の心は純米酒のように優しく、そして温かい。
なぜかお名前が出ていませんが、「彼女」は、女優の一色采子さんです。「名前に「山」が付く日本画の大家5人の作品展」は、一昨年、二本松駅前の大山忠作美術館さんで開催された「五星山」展。関連行事として、昭和51年(1976)に北條秀司作の舞台「智恵子抄」で智恵子を演じられた有馬稲子さんと一色さんのトークショーがありました。当方、その折に一色さんの知遇を得まして、昨年の第58回連翹忌にお招きしましたところ、こころよくご参加下さいました。今年の第59回連翹忌にもお申し込みを戴いております。右の画像は、一色さんにいただいた一筆箋。安達太良山を描いた父君の絵があしらわれています。
「松竹創業120周年特別公演」については、調べてみましたがよくわかりません。ご本人に訊いてみます。
3.11が過ぎ、その前後は新聞やテレビ等、特集をいろいろ組んでいましたが、それも一段落という感があります。ところが、3.11が過ぎても被災地の被災はまだ続いています。光太郎がらみの地では、宮城女川で、今日、石巻線の女川駅が再開されるなど、復興も徐々に進んではいます。しかし、まだまだ途上です。
日本中が「純米酒のように優しく、そして温かい」「「ほんとの友」の心」で、被災地支援を続けてほしいものです。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月21日
明治36年(1903)の今日、日記「彫塑雑記」を書き始めました。
光太郎数え21歳、東京美術学校在学中のものです。7月7日までと、翌年3月31日~5月2日まで、断続的に書かれています。
書き出しは以下の通り。
○疑問、疑問、是れ人世の声なるか。人生れて心あり。疑無きを得ざるなり。已に凝つて此を解かんとす。
青年の煩悶がよく表されています。写真でロダンの作品を初めて見た衝撃なども述べられています。
ロダン作「詩」なる裸体像を写真に依つて見るを得たりしが今に至りて忘るゝ能はず。巨匠なるかな。
光太郎はおそらくその生涯にわたって日記を書いていたはずですが、戦前、戦中のものは、実家の蔵にあったこの一冊を除いて現存が確認できていません。そのほとんどは昭和20年(1945)の空襲で、アトリエもろとも灰になったと推定されています。