3.11が巡ってきました。

新聞やテレビでは、少し前から東日本大震災がらみの特集などを組んで下さっていますし、イベントなどもいろいろあって、いいことだと思います。記憶を風化させないというのはもちろん、未だに避難生活を強いられている皆さんがたくさんいたりする現状に目をつぶるわけにはいきませんから。


新聞各紙の報道をご紹介します。  

<「福島」復興考えるシンポ>「地域ごとの被害を見て」 立命大で280人参加

毎日新聞京都版 3月9日

 東京電力福島第1原発事故に関連したシンポジウム「ほんとの空が戻る日まで」が8日、立命館大朱雀キャンパスホール(京都市中京区)で開かれ、放射能汚染被害を受けた福島県での農業復興や被災者支援の取り組みが報告された。復興支援の拠点施設「福島大学うつくしまふくしま未来支援センター」と福島大の主催で約280人が参加した。

 元NHKアナウンサーで、現在はNPO法人「8bitNews」を設立し、インターネットなどを使って福島のニュースを発信するジャーナリストの堀潤さんが講演した。

 「『今も苦しんでいる福島』と語った際、その福島は何を指すのか」とまず問題提起。「本州で岩手県に次いで広い福島県は、(原発がある)海側の浜通りから、山側の会津地方まで、放射能被害の程度が違う。地域ごとに細かく見ず、ひとくくりに福島を捉えてしまうと、支援を届ける場所が曖昧になる恐れがある」と警鐘を鳴らした。 

福島の現実と課題「現地で知って」 震災4年、京都でシンポ

京都新聞 3月9日

 東日本大震災から4年を迎えるのを前に、福島県の現状を考えるシンポジウム「ほんとの空が戻る日まで」が8日、京都市中京区の立命館大朱雀キャンパスであった。復興への取り組みが進む一方で、現在になって表面化した問題を大学教授や被災者が講演し、「課題解決のために、多くの人に現地を訪れてほしい」と市民に呼び掛けた。

 被災地の状況を全国に発信する取り組みの一環で、福島大などが主催した。東京や大阪に続いて京都でも開かれ、約280人が参加した。シンポでは、東京電力福島第1原発事故による県内の放射線量や影響を受けている生産物の出荷状況などを、福島大の教授が説明した。

 本多環特任教授は、家族と別れたり親がストレスを抱えたりして家庭環境などが変化した子どもは、自分の存在意義について悩み、自信をなくしていると指摘。震災から4年近くが経過して体力の低下が明らかになっているとし、「医療面のケアなど、これまでは対症療法にとどまっていたが、教育や福祉の専門家を交えた複合的な支援が必要だ」と訴えた。

 福島市にある松島屋旅館のおかみ高橋美奈子さん(47)は、関西の旅行業者から客に対して責任を持てないため福島行きの商品をつくれないと言われたことを紹介。「原発の汚染水問題などが起きる度に、企画や復興にむけた計画が覆えされる課題はある。現地を見てもらうために自分たちにできることを考えていきたい」と力を込めた。 

大震災から4年…実情伝え 福島大が京都でシンポジウム

福島民友 3月9日

 
 福島大うつくしまふくしま未来支援センターは8日、京都市の立命館大で京都シンポジウム「ほんとの空が戻る日まで」を開いた。300人以上の聴衆を前に、同大の研究者らが震災、原発事故から間もなく丸4年となる本県の実情を伝えた。

   2013(平成25)年に東京、昨年は大阪でシンポジウムを開いており、今回が3回目。元NHKアナウンサーでジャーナリストの堀潤さんが基調講演した後、同センターの大瀬健嗣特任准教授が本県の放射性物質汚染の現状などについて、小山良太副センター長が本県農業の放射性物質対策などについて、本多環特任教授が子ども支援について報告した。「震災・原発事故からの福島の闘い」と題し、開沼博特任研究員をコーディネーターにパネルディスカッションも行った。


明るいニュースも報じられています。昭和6年(1931)に光太郎が訪れたことを記念し、文学碑が建てられ、今も女川光太郎祭を毎年開催している宮城県女川町から。 

<JR石巻線>復興の象徴また一つ 女川駅の新駅舎公開

毎日新聞 3月5日

 東日本大震災の津波で流失した宮城県女川(おながわ)町のJR石巻線女川駅の新駅舎が5日、報道陣に公開された。町のシンボルのウミネコが羽ばたく姿をイメージした大屋根が特徴。かさ上げなどの再建が進む町中心部の核となる。  
 
 旧駅は沿岸にあったが、新駅は約200メートル内陸に移設し、敷地も7~9メートルかさ上げした。ホームから真っすぐ先に海が見渡せ、駅舎を起点に海岸に向けて駅前広場やプロムナード(遊歩道)、商店街などを整備する復興計画が本格化する。

21日に開業し、石巻線浦宿駅までの2.3キロ区間の運行が再開、4年ぶりに石巻、仙台方面と鉄路でつながる。町はこの日を「新生女川のまちびらき」と位置づけ、記念式典で復興をアピールする。

3階建ての駅舎は、海外でも活躍する建築家、坂茂(ばん・しげる)さんが設計。温泉施設「ゆぽっぽ」を併設した。3階の展望台からは町を一望できる。


女川の新たな玄関口、新駅舎は水鳥の羽ばたきイメージ

産経新聞 3月6日

 東日本大震災の津波で被災し、不通となっているJR石巻線の浦宿-女川間(約2・3キロ)運転再開に先駆け、駅舎が流されるなど甚大な被害を受けたJR女川駅(女川町)の新駅舎が5日、報道陣に公開された。同区間は21日に運転が再開される予定。

公開された新駅舎は2月20日に完成。世界的建築家の坂茂(ばん・しげる)氏が設計した。屋根が木造の鉄骨3階建てで、延べ床面積は約900平方メートル。屋根は曲線を描き、水鳥が翼を広げて羽ばたく姿を重ねたという。1階は駅事務所や待合所、2階は町営の温泉施設になっている。

この日は女川駅からの列車の試運転も実施。2両編成の列車が女川駅から浦宿駅の手前まで、報道陣を乗せて2往復した。駅は震災前より200メートル内陸へ移転したため、一部ルートを変更。運転手や乗務員は、信号などの設備や新しいルートの確認を行った。

21日は午前6時12分の始発から運転再開。震災前と同じく1日に上下22本の列車が運行する。町営温泉施設は22日からオープンする。

JR石巻線は、美里町の小牛田(こごた)駅から女川駅を結ぶ全14駅約44・7キロ。平成23年3月の震災で全線不通となったが、同年4月から25年3月にかけ、浦宿まで段階的に復旧していた。浦宿-女川間は線路や、女川駅の駅舎が流されるなど甚大な被害を受け、同駅の移転やかさ上げのために再開が遅れていた。

女川町町民課町民生活係の小山幸宏主査は「駅は新しい女川町の玄関口になる。運転再開を皮切りに町を活気づけ、復興の一翼を担ってくれれば」と期待を込めた。


 しかし、素直に喜べない部分もあるようです。女川光太郎祭会場となっており、女川光太郎の会事務局長で、あの日、津波に呑まれた故・貝(佐々木)廣さんの奥様のお店、佐々木釣具店が入っている仮設商店街・きぼうのかね商店街に関する報道です。

(東日本大震災4年)仮設商店街、悩む移転

朝日新聞 3月9日

 4年前に津波被害を受けた東北沿岸の各地で、地元を元気づけてきた仮設商店街の商店主たちに「2度目の移転」の決断が近づいている。新たなまちなみにあわせた「本設」の商店街づくりの構想もあるが、東日本大震災を機に人口減と高齢化は加速。廃業を考える人は少なくない。

 ■細る客足、家賃増も壁
 宮城県女川町の中心部では、津波で全壊したJR女川駅が21日に新しくでき、12月には駅前に新商店街が完成する予定だ。構想では、幅15メートルの遊歩道が海岸にかけて延び、両側にスーパー、薬局のほか、ダイビングショップやギター工房など27店が並ぶ。

 商店街を運営する「女川みらい創造」によると、「半数は町の外から客を呼び込める店」だ。近江弘一専務は「観光客が趣味に没頭し、ゆったりと過ごせるように考えた」と話す。

 1・5キロ西の高台には、被災した商店が移った「きぼうのかね商店街」がある。50店が入る平屋建ての長屋は3年前、県立高校の敷地に建てられた。震災直後、相次いで完成した仮設住宅の近くにできたが、仮設に住む人は減り始め、早ければ2年後に閉鎖される見通しだ。

 ここから新商店街に移ると決めた店は九つ。別の場所で再建をめざす店もあるが、およそ10店は廃業が取りざたされ、移転に二の足を踏む店主が多い。

 一角で理容店を営む深堀浩一さん(71)は「年齢を考えれば難しいね」。ここで営業を終えるつもりだ。震災後、町の人口は3割減り、なじみ客の足も遠のいた。仮設商店街には国の復興予算や寄付があてられ、月2万円の共益費と光熱費で済むが、新商店街に移れば家賃もかさむ。


むずかしいところです……。

きぼうのかね商店街といえば、先頃来日された、英国のウィリアム王子も訪問なさいました。

ウィリアム王子、女川の「希望の鐘」鳴らし離日

産経新聞 3月1日008

 来日中の英国のウィリアム王子は1日、東日本大震災の被災地、宮城県石巻市を訪問後、女川町に入った。100人以上が出迎え、獅子舞踊りや太鼓を鳴らして歓迎した。
 王子はがれきの中から見つかった「希望の鐘」を鳴らし、復興のために開設した商店街の人々とも言葉を交わした。
 王子は日本での全日程を終えて1日夕、次の訪問先の中国へ向かった。

英王子「私も大切な母亡くした」石巻など訪問

河北新報 3月2日

 来日中の英国のウィリアム王子(32)は1日午前、東日本大震災で甚大な被害が出た石巻市と宮城県女川町を訪れ、被災状況を視察し、住民らと交流した。
石巻市では、社屋が津波にのまれながらも手書きの壁新聞を発行した石巻日日新聞の施設を訪れ、記者や津波で3人の子どもを亡くした木工作家の遠藤伸一さん(46)、綾子さん(46)夫妻と面会した。
王子は真剣な表情で夫妻の話に耳を傾け、「私も大切な母を亡くした。思い出してつらい時にはきょうのことを思い出します」と語り掛けた。伸一さんが涙ぐんだ際には、王子が腕をさすり、「あなたは立派な父親だ」と励ました。007
石巻湾を一望できる日和山公園では、亀山紘市長が震災時の様子を説明。王子は犠牲者を悼んで献花し、黙とうをささげた。石巻小の児童2人から折り鶴を手渡されると、「息子のお土産にします」と話した。
女川町の仮設商店街「きぼうのかね商店街」では、地元住民が獅子舞や太鼓の演奏などで歓迎。王子は店舗を巡って商店主らと触れ合ったほか、がれきの中から見つかって商店街の象徴となっている「希望の鐘」を3回突き鳴らした。

 
右が「希望の鐘」です。この鐘の音が、すべての被災者の皆さんの心の中に、鳴り響くことを祈ります。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月11日

大正9年(1920)の今日、福島に帰省していた智恵子が東京駒込林町のアトリエに戻りました。

3月12日付けで光太郎が友人の作家・田村松魚に送った葉書に以下の記述があります。

智慧子は大層健康になつて肥つて昨夕帰つて来ました。丁度時候があたゝかなのでよかつたとおもひます。
しばらく田舎に居た人を見ると東京の生活の神経的に慌れて濁つてゐる事を感じさせられます。やはり国民の生気は田舎にあるかも知れませんね。
(略)
ちゑ子からあなたにも妙子さんにもよろしく


「智慧子」「ちゑ子」は原文の通り。「慌れて」もそうです。書簡や日記だと、意外に光太郎の表記はいい加減です。

智恵子歿後の昭和15年(1940)に書かれた「智恵子の半生」によれば、智恵子は結婚後も1年のうち3、4ヶ月は実家に帰っていることもあったそうで「東京には空が無いといつて歎いた」といいます。それが詩「あどけない話」(昭和3年=1928)の「智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ。」につながります。