昨日は都内に出かけておりました。
メインの目的は、4月末にリニューアル完了・グランドオープン予定の、花巻高村光太郎記念館関連でした。
新しい記念館内に、イメージ映像と朗読の音声で光太郎の詩を紹介するコーナーが設置されます。そのための朗読の収録が、昨日、水道橋の高速録音スタジオさんで行われました。
朗読を担当されたのは、ベテラン声優の堀内賢雄さん。洋画の吹き替えで、ブラッド・ピッドの声などを担当されています。アニメでもご活躍で、一昨日は「クレヨンしんちゃん」の収録だったそうです。記念館の朗読コーナーでは、光太郎詩4篇を流すとのことで、その朗読をしていただきました。4篇は、「道程」、「レモン哀歌」、「雪白く積めり」、「メトロポオル」です。
収録にかかる前に打ち合わせをしました。その中で堀内さんがおっしゃっていたのですが、記念館で流れる光太郎の詩の朗読をなさるということを、「声優冥利に尽きる」ということで、声優仲間から非常にうらやましがられたそうです。しかし、ある意味、ものすごいプレッシャーでもあるとのことでした。なるほど、そういうものかと思いました。
さて、収録。まずは「道程」。ただし、詩集『道程』に収録され、よく知られている短い形ではなく、雑誌『美の廃墟』での発表形、すなわち102行ある大作です。これ1篇で8分を超えました。渋い落ち着きのある、しかし張りのあるバリトンの声で、素晴らしい朗読でした。よくある「さあ、感動しなさい」と言わんばかりに感情移入丸出しの妙な抑揚をつけた朗読ではなく、あくまで淡々と、しかし内に込めたエネルギーを感じさせるものでした。
比較的短い残り3篇の収録も続けて行われましたが、こちらも1篇ごとに詩の内容をよく勘案されて調子を変え、テンポも変え、しかし感動の押し売りではない、これまた素晴らしい朗読でした。サブ(副調整室)で聴いているスタッフさんたちや、当方など、1篇終わるごとに、感嘆のため息でした。
「レモン哀歌」、「雪白く積めり」は以前のこのブログでご紹介しています。左記リンクでご覧下さい。「メトロポオル」のみ、このブログ内にありませんでしたので、下記に全文を載せます。画像は詩の舞台、花巻郊外旧太田村にある光太郎が暮らした山小屋です。
メトロポオル
智恵子が憧れてゐた深い自然の真只中に
運命の曲折はわたくしを叩きこんだ。
運命は生きた智恵子を都会に殺し、
都会の子であるわたくしをここに置く。
岩手の山は荒々しく美しくまじりけなく、
わたくしを囲んで仮借しない。
虚偽と遊惰とはここの土壌に生存できず、
わたくしは自然のやうに一刻を争ひ、
ただ全裸を投げて前進する。
智恵子は死んでよみがへり、
わたくしの肉に宿つてここに生き、
かくの如き山川草木にまみれてよろこぶ。
変幻きはまりない宇宙の現象、
転変かぎりない世代の起伏。
それをみんな智恵子がうけとめ、
それをわたくしが触知する。
わたくしの心は賑ひ、
山林孤棲と人のいふ
小さな山小屋の囲炉裏に居て
ここを地上のメトロポオルとひとり思ふ。
運命の曲折はわたくしを叩きこんだ。
運命は生きた智恵子を都会に殺し、
都会の子であるわたくしをここに置く。
岩手の山は荒々しく美しくまじりけなく、
わたくしを囲んで仮借しない。
虚偽と遊惰とはここの土壌に生存できず、
わたくしは自然のやうに一刻を争ひ、
ただ全裸を投げて前進する。
智恵子は死んでよみがへり、
わたくしの肉に宿つてここに生き、
かくの如き山川草木にまみれてよろこぶ。
変幻きはまりない宇宙の現象、
転変かぎりない世代の起伏。
それをみんな智恵子がうけとめ、
それをわたくしが触知する。
わたくしの心は賑ひ、
山林孤棲と人のいふ
小さな山小屋の囲炉裏に居て
ここを地上のメトロポオルとひとり思ふ。
どうもボキャブラリーが貧困で、うまく堀内さんの至芸を言葉で表せません。ぜひ、4月末リニューアル完了・グランドオープン予定の、花巻高村光太郎記念館で、実際にお聴き下さい。
堀内さんの朗読もそうでしたが、スタッフの皆さんの仕事ぶりにも感心しきりでした。「最高のものを作ろう」という気概といいますか、とにかく妥協を許しません。ベテラン堀内さんの朗読にも、ばしばしダメ出しが出ましたし、収録後に行った映像部分の打ち合わせでも、よりよくするためにはどうしたらいいかと、侃々諤々の議論でした。たとえばイメージ映像に載せて、詩が画面に映し出されるのだそうですが、そのフォント(字体)をどうするか一つとっても、「ビジュアル的に考えてこれがいい」「いや、これは無難すぎて面白くない」「これは癖がありすぎだろう」「詩の内容を考えるとこれでしょう」といった具合に。プロというものはこういうものだな、と感じました。
繰り返しますが、4月末リニューアル完了・グランドオープン予定の、花巻高村光太郎記念館で、実際に視聴なさってみて下さい。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月10日
昭和26年(1951)の今日、岩手県立盛岡美術工芸学校の第一回卒業式のために祝辞を書きました。
昭和23年(1948)、盛岡に県立美術工芸学校が開校しました。初代校長は、美術史家・美術評論家の森口多里が務め、教員には画家の深沢省三・紅子夫妻、彫刻家の舟越保武、堀江赳らがいました。その後、ことあるごとに光太郎は同校を訪れ、生徒に講話をしたり、祝辞や祝電を寄せたりしました。
県立美術工芸学校は、その後、盛岡短期大学美術工芸科を経て、岩手大学特設美術科に移行、現在に至ります。