昨日の『岩手日報』さんの「論説」です。いわゆる社説のようなものでしょうか。
釜石がW杯会場に 日本開催の意義を象徴
ラグビーの2019年ワールドカップ(W杯)日本大会の開催12会場の一つに釜石市が選ばれた。16年のいわて国体とともに、国内外に本県の今を発信する好機としたい。
ラグビーW杯は4年に一度の開催。世界的にはサッカーW杯や五輪、パラリンピックに次ぐスポーツの大イベントと位置付けられている。開催年に当たる今年は9月から10月にかけて、第8回となるイングランド大会が行われる。
これまでは欧州やニュージーランド、オーストラリア、南アフリカなどのラグビー伝統国のみで開催され、日本大会はアジア初。サッカーなどに比べ国内の注目度は決して高いとは言えず、集客など運営面での不安は拭えない。
会場地として12カ所程度を目安としてきた日本大会組織委に対し、大会運営を委託される「W杯リミテッド」が10程度を望んだのも、財政面のリスク回避が背景だ。
それでも12に落ち着いたのは、リスクより日本開催の意義を重んじたからだろう。その象徴的存在が釜石だ。
花園ラグビー場がある大阪府東大阪市が日本ラグビーの「西の聖地」なら、既に大卒選手が主流だった1980年代、高卒選手を主力に鍛え上げながら日本選手権で7連覇した新日鉄釜石(当時)の地元釜石は「東の聖地」。その誇りは全県民が共有する。
開催地には15自治体が立候補。釜石は、競技場新設を予定する唯一の候補地だった。
仮称「釜石鵜住居復興スタジアム」の建設予定地は津波で被災した釜石東中、鵜住居小跡地周辺。東日本大震災の津波で、地区防災センターの避難者を含め多数の市民が犠牲になった地域だ。
同市では依然、2千人以上が仮設住宅で暮らす。「被災者の感情に配慮すべき」という声も聞こえる中、野田武則市長は昨夏の誘致表明で、財源に一定の見通しが立ったことなどを背景に「地域の宝となるのであれば、多少の非難はあっても開催する意義がある」と決意を語った。
スタジアム予定地には、かさ上げ用の土砂がうずたかく積まれる。1月中旬、現地を視察したW杯リミテッド幹部は「非常に心を動かされた」と語った。葛藤を超えて誘致に動いた釜石市民の思いが通じた瞬間だろう。
復興はラグビーにも似る。15人が塊となり、ひたすら前を目指す姿は釜石ラグビーの真骨頂であり、高村光太郎が「沈深牛の如し」と表現した県民性にも重なる。
約29億円とされる施設建設費をはじめ、実現までに課題は多いが、W杯を運営する側も労苦を共にする覚悟で決めたからこその会場決定に違いない。その総意を励みに、ひたすら前を目指したい。
そこで光太郎を使うか、という感じですが、なかなか上手いですね。『岩手日報』さんは一面コラムの「風土計」でしばしば光太郎の名を上げて下さっています。2013年4月2日、昨年の11月13日、今年もすでに1月13日に。
「沈深牛の如し」というのは、昭和24年(1949)の元旦、『新岩手日報』に掲載された詩「岩手の人」の一節です。
岩手の人
岩手の人眼(まなこ)静かに、
鼻梁秀で、
おとがひ堅固に張りて、
口方形なり。
岩手の人眼(まなこ)静かに、
鼻梁秀で、
おとがひ堅固に張りて、
口方形なり。
余もともと彫刻の技芸に游ぶ。
たまたま岩手の地に来り住して、
天の余に与ふるもの
斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
岩手の人沈深牛の如し。
両角の間に天球をいただいて立つ
かの古代エジプトの石牛に似たり。
地を往きて走らず、
企てて草卒ならず、
つひにその成すべきを成す。
斧をふるつて巨木を削り、
この山間にありて作らんかな、
ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。
たまたま岩手の地に来り住して、
天の余に与ふるもの
斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
岩手の人沈深牛の如し。
両角の間に天球をいただいて立つ
かの古代エジプトの石牛に似たり。
地を往きて走らず、
企てて草卒ならず、
つひにその成すべきを成す。
斧をふるつて巨木を削り、
この山間にありて作らんかな、
ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。
花巻市の花巻北高校さんの校庭に、高田博厚作の光太郎胸像が立っています(埼玉の東松山にも同型の胸像があります)。
この詩は、一説には当時の岩手県知事、国分謙吉をモデルにしたとも言われています。「沈深牛の如し」は光太郎自身にも当てはまるような気がしますが。
さて、ラグビーW杯、釜石での開催決定。東日本大震災からの復興支援となるのであれば、非常にいいことだと思います。また、松尾雄治選手がいた頃の新日鐵釜石の黄金時代を知る身には、感慨深いものがあります。ラグビーは高校の体育の授業でやった程度ですが、あの頃は、普段着に横縞のラガーシャツの襟を立てて着るのが結構流行っていました。松任谷由実さんの名曲「ノーサイド」とともに、青春時代を想い出します(笑)。
釜石といえば、光太郎は昭和6年(1931)、新聞『時事新報』連載の紀行文「三陸廻り」で、船を使って釜石にも立ち寄っています。それを記念して、釜石にも光太郎の文学碑が建てられました。平成7年(1995)のことです。
写真は建立間もない頃に当方が撮ったものです。碑文は「三陸廻り」の釜石の項から抜粋したもので、光太郎署名だけ自筆拡大、他は活字です。
機会があったら、ぜひまたこの碑を見に行きたいものです。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月5日
昭和16年(1941)の今日、東和音楽出版社から『新国民楽譜 歩くうた』が刊行されました。
前年発表された、光太郎作詞、飯田信夫作曲、徳山璉の歌唱による国民歌謡「歩くうた」の楽譜です。
オフィシャルな楽譜は前年12月にNHKさんの前身、日本放送協会から『国民歌謡第七十六輯』として刊行されていますが、比較的ヒットしたためでしょうか、こうした後追いの出版もなされました。
左が『新国民楽譜』、右がオフィシャルな『国民歌謡 第七十六輯』です。