去る1日の日曜日、光太郎の名がちらりと出た新聞記事が2本ありましたのでご紹介します。
まずは『朝日新聞』さんの神奈川版。
神奈川)97歳の女性画家、9年ぶり油絵展 30点展示
97歳の現役画家・井上寛子さん=横浜市神奈川区=の9年ぶりの油絵展「色彩を求めて97年」が同市中区の洋館、山手234番館で開催中だ。一昨年の横浜美術協会展で朝日新聞社賞を受けるなど90歳を超えても精力的に制作する井上さん。ここ10年ほどの作品約30点を展示している。
井上さんは東京生まれ。23歳で文部省美術展(現・日展)に入選する。絵画の師の紹介で詩人高村光太郎を訪ねたり、同じ学校に娘が通う彫刻家北村西望宅に遊びに行ったり、芸術と触れあう青春を送った。
1943年に結婚した夫の故・信道さんは横浜駅西口地下街入り口の女性像など各地に作品が残る彫刻家。出産直前に横浜大空襲にあい、戦後は一時病床にふせるなど多難な時期もあったが、夫や長女の大野静子さんともども精力的に展覧会を開いてきた。
「印象派の絵を見て日本とは違うと思った。光は物理的、生理的、心理的と三つに分けて考えられる。その研究に時間をかけて絵をやり抜いた」と振り返る。
「絵を続けられるか、続けられないか、ひとつの岐路。たやすいことはいえない」と心境を語りながらも「気に入った構図に色彩がうまくはまった時はうれしい」と笑った。
井上寛子さんという方、『高村光太郎全集』にはお名前が見えませんが、井上さんの年譜によれば、昭和16年(1941)に、「高村光太郎氏より詩と絵画の精神を学ぶ」とあります。
97歳にして個展の開催、頭が下がります。ただ、既に閉幕しており、残念です。
次いで『読売新聞』さんの読書面。書評です。
記者が選ぶ 時代(とき)を刻んだ貌(かお) 田沼武能著
勤労動員で生き抜く術(すべ)を学んだ中学時代。東京大空襲では下町を逃げまどう。生活の場で戦争の悲惨さを知った田沼武能(86)は、人間の生き様を表現する世界に導かれた。1949年、名取洋之助や木村伊兵衛ら錚々(そうそう)たる写真家たちが所蔵する写真通信社に入社。木村に師事し人脈も得る。文化、芸術誌とも嘱託契約を結び、撮影依頼を次々と受けた。59年からはフリーの写真家に。師匠木村は田沼に「おれのマネをしていてもダメだ」と忠告した。
孫のような若手写真家に見せる、昭和を創りあげた大家240人の諭すような表情が見事だ。高村光太郎、永井荷風ら教科書でおなじみの顔もいることに驚く。当時貴重だった電話で仕事を取り付け、個人著作権のネガを蓄積してきたフリーランスの秘蔵写真集。(クレヴィス、3000円)
田沼氏は評にある通り、木村伊兵衛門下の写真家。したがって、昨夏逝去された光太郎の令甥、故・高村規氏の兄弟子にあたります。そういうわけで、髙村規氏のご葬儀では、弔辞を述べられました。
一昨年、銀座のノエビア銀座本社ビルギャラリーで開催された個展「アトリエの16人」では、やはり光太郎のスナップも出展されていました。
さて、『時代を刻んだ貌』という書籍、版元サイトにリンクを張っておきますのでご覧下さい。表紙は佐藤春夫ですね。サムネイルが数葉出ますが、黒柳徹子さんや梅原龍三郎などで、残念ながら光太郎は出ません。
井上寛子さんにしても、田沼武能氏にしても、生前の光太郎を知る皆さん、まだまだ頑張っていただきたいものです。詳細は未定ですが、今月下旬にやはりそうした生前の光太郎を知る方にお会いし、お話を聴く予定です。レポートをお待ち下さい。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月4日
昭和29年(1954)の今日、20数年ぶりに自作の木彫「魴鮄(ほうぼう)」を手に取りました。
当日の日記から。
午后宮崎丈二氏くる、「魴鮄」の木彫持参、現存のこと分る、友人の道具屋所有の由、
この「魴鮄」は大正13年(1924)の作。昭和2年(1927)の大調和美術展などに出品されたりもしました。
その後、買い手がついたようで光太郎の手許を離れましたが、昭和20年(1945)の「回想録」に以下の記述があります。
私の乏しい作品も方々に散つて、今は所在の解らないものが多い。『魴鮄』など相当に彫つてあるので、時々見たいと思ふけれども行方不明である。何か寄附する会があつて、そこに寄附して、その会に関係のある人が買つたといふ話だつたが、その後平尾賛平さんが買つたといふ事も聞いたが、どうなつたか分からない。
平尾賛平はレート化粧品を商標とした平尾賛平商店の主。おそらく二代目で、東京美術学校に奉職する前の光雲に援助などもしていました。
その「魴鮄」と奇跡的に再会を果たしたのが61年前の今日でした。
持ち込んだ宮崎丈二は光太郎と交流のあった詩人。昭和37年(1962)に、この「魴鮄」を謳った詩を発表しています。