昨日は、東京町田市の八木重吉記念館さんに行って参りました。
この春、町田にある大学を卒業する娘が、本格的に茶道をやっておりまして、昨日は卒業記念の茶会がありました。「卒業生の親は来るものだ」というので、そちらは愚妻に参会してもらい、当方は同じ市内の八木重吉記念館さんに行っていた次第です。
八木重吉は明治31年(1898)、南多摩郡堺村(現・町田市相原町)に生まれました。その生家の築百年以上という土蔵が記念館になっています。
八木は教員生活のかたわら、第一詩集『秋の瞳』を大正13年(1924)に刊行、佐藤惣之助主宰の『詩之家』同人となり、その関係で同誌に関係していた草野心平の知遇を得ました。第二詩集『貧しき信徒』は昭和3年(1928)刊行ですが、そちらの上梓を待たず、数え29歳で夭折しました。
生前に光太郎と八木が会ったことはないようですが、おそらく佐藤や心平経由で光太郎は八木の詩業にふれ、高い評価をしました。
八木重吉氏の今は遺著になる詩集「貧しき信徒」を拝受。よみ返して今更この敬虔無垢な詩人を敬愛する情を強めました。かういふ詩人の早世を実に残念に思ひます。御近親の方々のお心も創造いたされます。
「八木重吉詩集『貧しき信徒』評」 昭和3年(1928)8月『野菊』第六巻第八号
その後、未亡人登美子が八木の原稿を守り抜き、こちらは光太郎の協力も得、遺稿の刊行に力を注ぎました。戦後になって、登美子は歌人の吉野秀雄と再婚、夫婦で光太郎との交流が続きました。
さて、八木重吉記念館。
町田街道沿いの駐車スペースに車を駐め、ちょっとした坂を上がっていく形になりますが、まず坂の下に標柱がありました。署名を見なくとも、一見してそれと判る、草野心平の筆跡です。「詩人八木重吉生家 詩碑 墓地」とあります。
視線を上げると八木の詩碑。代表作の一つ、「素朴な琴」が記されています。
素朴な琴
このあかるさのなかへ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋の美しさに耐へかねて
琴はしずかに鳴りいだすだらう
坂を上がると、先述の蔵が見えてきますが、その手前には八木の銅像も。
八木の兄のお孫さんにあたられるご婦人が出てこられ、鍵を開けて下さり、館内へ。2階建ての土蔵の内部が改装され、八木の詩稿、著書、油絵、書簡、古写真、さらには八木の教員免許や辞令、没後の新聞記事などのコピーといったものまで、所狭しと展示されていました。
撮影禁止ということで、残念ながら画像がありませんが、光太郎の草稿「八木重吉詩集序」(昭和19年=1944)2枚のコピーもありました。ただ、原本は行方不明だそうです。
また、先述の心平による標柱の元となった書、心平の色紙もありました。
まさしく手作りの素朴な文学館、という感じで、これはこれでいいものだと思いました。
町田というと、大都市のイメージもありますが、ここは町田のはずれで、もう少し経って、陽春の頃になると、もっといい感じだろうなと思いました。昨日はかなり雨も強かったので、その点が残念でした。
さて、見学には電話での予約が必要です。詳しくは公式サイトをご参照下さい。
当方、今日、明日は仙台に行って参ります。昨日は娘の関係で町田でしたが、今度は息子の関係です。やはり大学の学生寮にいるのですが、そちらを出て一般のアパートに移るというので、引っ越し及び家具等の買い出しです。
せっかくですので、町田の八木重吉記念館さんもそうでしたが、こういう機会でもないとなかなか足の向かない施設に立ち寄ろうと考えています。詳細は帰ってから。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月2日
昭和21年(1946)の今日、雑誌『北方風物』表紙のための素描「早春の木の芽」をペン書きで清書しました。
この絵は4月10日発行の『北方風物』第1巻第4号の表紙を飾りました。前月におそらく鉛筆でスケッチしたものをペン書きにしています。そこで日付は二月十五日となっています。
当日の日記から。
午后、木の枝の写生ペン画。「北方風物」へやるもの、葉書よりやや小にかく。