以前にもご紹介しましたが、この『光太郎資料』、元々は昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、当会顧問にして高村光太郎記念会事務局長の北川太一先生が第36集まで刊行されていたものですが、その名跡をお譲りいただきました。当方が刊行し始めた第37集から数えて7冊目の刊行ということになります。
毎回、6本ほどの記事を連載形式で載せています。
「光太郎遺珠」から
高村光太郎研究会から刊行されている雑誌『高村光太郎研究』の連載として、筑摩書房から刊行された増補版『高村光太郎全集』補遺作品を「光太郎遺珠」の題でまとめていますが、そちらは新たに見つかったものをその都度出している形です。そこで、テーマや関連事項ごとに分類、再構築し、画像や関連資料を交え、紹介しているものです。
今回は「造形作家として(五) 十和田湖畔の裸婦群像」と題し、最晩年の十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)にかかわるものを紹介しています。
光太郎回想・訪問記 「高村光太郎氏とアトリエと袴と」 高山辰夫」 / 「高村光太郎氏のこと」 近藤憲二
大正期の光太郎回想です。
光雲談話筆記集成 浅草の話(下)その2 『漫談 江戸は過ぎる』より
昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 第七回 安達(福島)
光太郎や智恵子、光雲ゆかりの地の古い絵葉書の画像と共に、その地の概要、光太郎や智恵子・光雲との関わりなどを紹介しています。
音楽・レコードに見る光太郎 「こどもの報告」(三)
昭和14年(1939)、「文部科学省選定日本国民歌」の一つとして作られた光太郎作詞の歌曲に関しての論考です。
高村光太郎初出索引(七) は行(一)
4月2日の第59回連翹忌の席上でご参会の皆様には無料で配布いたします。また、当会名簿にお名前のある方で、連翹忌当日ご欠席の方には後ほど郵送いたします。
ご入用の方は、こちらまでご連絡下さい。
併せて連翹忌の参加者も募っております。よろしくお願いいたします。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月1日
平成元年(1989)の今日、NTT東北岩手支社より、50度数テレホンカード「小屋の入り口に安らぐ高村光太郎」が発行されました。
花巻郊外太田村の山小屋での光太郎と、当時の筆跡「人は野をおもひ山をおもふ 光」が印刷されています。
携帯電話の普及により、めっきり見かけなくなったテレホンカードですが、当方、光太郎智恵子、光雲がらみのテレカを50枚程持っています。ネットオークションなどで見かけると、ついつい買ってしまいます(笑)。