昨日、NHK大阪放送局の「歴史秘話ヒストリア」ディレクター氏から、過日の「ふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」のDVDが届きました。番組制作に関わった御礼と解釈し、ありがたく拝受しました。自分でもテレビ放映を録画しておいたのですが、やはりNHKさんで焼いてくださったDVDはひと味違うような気がしています。最近はデジタル放送なので、そんなことはないのかもしれませんが。

 放映後、しばらくは他の皆さんのブログ等で感想が随分アップされていました。おおむね好評だったようで、胸をなで下ろしています。

そんな中で、特に気になったのは、光太郎と知り合う前の智恵子が、太平洋画会研究所で、エメラルド・グリーンの絵の具を多用し、師(番組では名前が出ませんでしたが、中村不折です)に「エメラルド・グリーンは不健康色だからつつしむように」と、ダメ出しされるシーンについて。

このエピソードは、師が弟子に自分の感性を押しつけようとする古い画壇の体質の象徴のように描かれていましたし、世に出ている書物のほとんどでもそういう解釈がなされています。

皆さんのブログ等では、そのシーン、そしてその後、「自分の感性を大切にしなさい」という意味での、光太郎の「太陽を緑色に描いてもいい」という評論「緑色の太陽」を読んだ智恵子が光太郎に惹かれていく、という流れが非常に印象的だった、という書き込みが多数見られます。

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元ネタは智恵子と同じ太平洋画会研究所に通っていた小島善太郎の回想「智恵子二十七、八歳の頃」です。これは筑摩書房の『高村光太郎全集』第11巻(昭和33年=1958)の月報のため書き下ろされたものです。

その部分だけ抄出します。

 或る年末のコンクールの時であつた。終わりに近づいた日、中村不折師が彼女の絵の前に立つと、彼女とその描いた絵とを見比べて暫く黙つていた。人体の色を主に太陽六原色で描いたのである。特にエメラルド・グリーンが目立ち、彼女はその色が好きであつたのか、何時の場合でも愛用していた。そのエメラルド・グリーン色について不折師が語り出したのである。
「絵とした場合、例えば黄一色で描いてもよろしい。だが不健康な色はつつしまねばならない。エメラルド・グリーンは一番の不健康色であるから――」と。
 
 彼女は首をかしげたなり何も言わなかつた。不折師が去つた後でも猶エメラルドの色を増して行き、それが師に対する明らかな反抗にとれた。

なるほど、たしかに中村が自分の感性を押しつけているように読み取れます。

しかし、そうとばかりも言い切れない、という解釈もあります。

昭和56年(1981)に集英社から刊行000された円地文子監修『近代日本の女性史 第十巻 名作を彩るモデルたち』という書籍があり、その中で作家の金井美恵子さんが智恵子の章を約40ページ担当されています。その中で、エメラルド・グリーンについて興味深い記述があります。

 ところでエメラルド・グリーンという絵の具については、小島善太郎も画家なのだから、ちゃんと説明しておくべきではなかっただろうか。これは一八一四年に作られた人工顔料で、化学合成されたものだが、硫黄を含む空気や顔料によって黒変する性質がある、きわめて安定性の悪い顔料で、毒性があり取り扱いに危険が伴っていた、西欧の美術家は使用しない色で、専門的な絵画材料に対する知識を持っていれば、まず使用しない。

蛇足ながら、函に描かれているのは、日本画家、故・大山忠作氏の「智恵子に扮する有馬稲子像」です。

改めてネットで調べてみたところ、確かにエメラルド・グリーンにはヒ素化合物が使われており、その毒性は顔料の中で最も強く、殺虫剤としての使用もあったほどだそうです。

結晶美術館 - シェーレ・グリーンとパリ・グリーン (google.com)

つまり、色としての見た目が「不健康」なのではなく、毒性が強いので、使用する者を「不健康」にする顔料という意味での「不健康色」なのです。

中村がその点を知っていて智恵子にダメ出ししたのであれば、自分の感性の押しつけどころか、弟子の身体をおもんぱかっての純粋な忠言ということになり、大きく意味が変わりますね。

先述の金井美恵子さんは、また違った見方をしています。

 小島善太郎の記述が正確であれば、中村不折は、そうした事実を教えずに、不健康色という抽象的な言い方しかしなかったらしいし、当時の日本の美術界は西欧画の絵画材料に対する根本的な研究や知識をほとんど持っていなかったのだから、中村不折も単に、使ってはいけない色という曖昧な知識を理由も知らないまま留学中に身につけていただけなのかもしれない。ようするに、それくらい、日本の近代絵画というものは幼稚な段階のものにすぎなかったのである。
 それに、もし中村不折がエメラルド・グリーンという絵の具が質の悪いものであることを知っていたら、そう言って注意すべきではなかったろうか。このエピソードは、実は日本の美術界の、もったいぶった封鎖性、えらぶった寝言のような芸談は言うが、技術上の細かい方法を西欧から持ち帰った秘法とでもいうようにして、めったに人には教えないケチくささのあらわれのように読める。光太郎が嫌悪したのも、こうした封鎖的で排他的な日本の美術界だったのである。

今となっては、真相は闇の中ですね。

ところで「歴史秘話ヒストリア」中では、智恵子役の前田亜希さんがエメラルド・グリーンを多用していて、健康に影響はないのか、ということになりますが、現在使われているものは、毒性のないものだそうです。亜希さんのファンの方、ご安心を(笑)。

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「歴史秘話ヒストリア」を見て、光太郎智恵子の生涯を初めて詳しく知ったという方も多くいらっしゃいました。テレビの影響力というのは大きいな、と改めて思いました。若い世代の皆さんにも、光太郎智恵子の世界に興味を持っていただきたいものです。

若い世代、というと、過日、和歌山県立図書館さんで、「YAチャレンジ・ザ・POPワールド」というコンクールを開催されていました。「YA」は「ヤングアダルト」、「POP」とは「本を読みたい気持ちにさせる文章やイラストをかいたカード」という定義で、中高生を対象に行ったイラスト等の募集でした。

同館のサイトで入賞作が発表され、和歌山県立神島高等学校の鈴木美海さんの作品、「智恵子抄」が奨励賞に輝いています。

これが「例外的なものではなく、「智恵子抄」、若い世代の方の感性にも訴えるものがあるのだと思いたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月26日001

昭和8年(1933)の今日、駒込林町のアトリエで、詩人の尾崎喜八に写真を撮られました。

「写真を撮られました」というのも変ですが、現代より写真というものが手軽でなく、特に個人でカメラを持っている人が少なかった時代です。

その時の写真がこちら。『高村光太郎全集』第19巻の口絵に使われています。

こちらはその3日前にやはり尾崎が撮った光太郎アトリエの写真です。尾崎については昨日、少しご紹介しましたが、ハイカラな趣味を持っていました。

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3年後には2・26事件が起こり、この国は暗黒の時代へと突き進んでいきます。まだ平和だった頃の東京の面影です。

2・26事件といえば、昨夜の「歴史秘話ヒストリア」は、2・26事件がらみで鈴木貫太郎を中心に取り上げていまして、これまた感動的でした。蛇足ながら。