22日、日曜日の『読売新聞』さん翌23日月曜日の『日本経済新聞』さんに、光太郎の名が出ました。といっても、それぞれちらりとで、光太郎がメインではありませんが。

まず『読売新聞』さんでは、日曜版の「名言巡礼」という連載で、光太郎と深い縁のあった詩人、尾崎喜八がメインに取り上げられた中で、喜八の紹介文の中に光太郎の名が。

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曰く、

尾崎喜八 1892~1974年。東京生まれ、京華商業学校卒。会社員、銀行員を経て、高村光太郎の影響のもと、20代から主に雑誌「白樺」で文学活動を開始した。1922年、初の詩集「空と樹木」を発表。ロマン・ロラン、ヘッセ、リルケなど欧州の作家の詩文の翻訳も手がけた。46年、長野県富士見村(現富士見町)に移住し、52年、東京に戻った。58年以降、それまでの作品を集大成した「尾崎喜八詩文集」(全10巻)を刊行した。富士見時代の作品を収めた詩集「花咲ける孤独」(55年)は、代表作とされる。

タイトルにある「名言」は以下の通り。

静かに賢く老いるということは満ちてくつろいだ願わしい境地だ(『春愁』より)

元になったのは、昭和30年代前半に書かれた「春愁(ゆくりなく八木重吉の詩碑の立つ田舎を通って)」という詩の冒頭部分です。

   春愁 
    (ゆくりなく八木重吉の詩碑の立つ田舎を通って)000
 静かに賢く老いるということは
 満ちてくつろいだ願わしい境地だ、
 今日しも春がはじまったという
 木々の芽立ちと若草の岡のなぞえに
 赤々と光りたゆたう夕日のように。
 だが自分にもあった青春の
 燃える愛や衝動や仕事への奮闘、
 その得意と蹉跌の年々に
 この賢さ、この澄み晴れた成熟の
 ついに間に合わなかったことが悔やまれる。
 ふたたび春のはじまる時、
 もう梅の田舎の夕日の色や
 暫しを照らす谷間の宵の明星に
 遠く来た人生とおのが青春を惜しむということ、
 これをしもまた一つの春愁というべきであろうか。


記事は喜八が戦後の7年間を過ごした(光太郎同様、戦争協力への反省です)長野県の富士見町を中心に書かれています。画像は八木です。

お嬢さんの榮子さん、お孫さんの石黒敦彦さんの談話なども。榮子さんは幼い頃、駒込林町の光太郎アトリエで智恵子にだっこして貰った記憶があるという方です。

当方、昨秋、鎌倉の光太郎縁戚の方が経営されている笛ギャラリーさんで、お二人にお会いしましたので、「ほう」と思いました。

ちなみにこの連載「名言巡礼」では、昨秋、光太郎をメインに扱って下さいました。

続いて、月曜日の『日本経済新聞』さん。

こちらはやはり光太郎と縁のあった画家、村山槐多を取り上げた記事です。

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光太郎の詩「村山槐多」(昭和10年=1935)からの引用があります。

   村山槐多

槐多(くわいた)は下駄でがたがた上つて来た。001
又がたがた下駄をぬぐと、
今度はまつ赤な裸足(はだし)で上つて来た。
風袋(かざぶくろ)のやうな大きな懐からくしやくしやの紙を出した。
黒チョオクの「令嬢と乞食」。

いつでも一ぱい汗をかいてゐる肉塊槐多。
五臓六腑に脳細胞を遍在させた槐多。
強くて悲しい火だるま槐多。
無限に渇したインポテンツ。

「何処にも画かきが居ないぢやないですか、画かきが。」
「居るよ。」
「僕は眼がつぶれたら自殺します。」

眼がつぶれなかつた画かきの槐多よ。
自然と人間の饒多の中で野たれ死にした若者槐多よ、槐多よ。


画家だった村山ですが、詩も書き、光太郎に見て貰ったりもしていました。それが「くしやくしやの紙」で、歿した翌年、大正9年(1920)には、『槐多の歌へる』の題で詩集が出版されています。光太郎は推薦文も寄せています。

記事にメインで紹介されている絵は、「尿(いばり)する裸僧」と題されたもので、村山の代表作の一つ。長野県上田市の信濃デッサン館に収蔵されています。


また、3年前には和歌山県田辺市立美術館で開催された「詩人たちの絵画」展に出品され、その時にも観て参りました。


先日も書きましたが、こうした新聞記事、公共図書館等で閲覧が可能です。ご利用下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月25日

昭和23年(1948)の今日、十字屋書店から歌集『白斧』が刊行されました。

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左は特製限定本(850部)、右は通常版です。明治期から戦後の光太郎短歌268首を収めています。編者は光太郎と交流があり、この時点では縁戚だった宮崎稔です。光太郎が取り持って、智恵子の最期を看取った智恵子の姪・春子と結婚していました。

奥付では前年11月刊行となっていますが、光太郎はこの歌集の刊行に同意せず、刊行がずれこみました。明治期の作品は鉄幹の添削ががっつり入っているので、自作と言い難いという光太郎の認識がそこにあります。

そこで、編者宮崎による「覚え書」を新たに印刷して巻末に貼り付け、漸く刊行にこぎ着けました。

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