一昨日の『日本経済新聞』さんの夕刊に、光太郎の名が出ました。

今月から始まった仏文学者小倉孝誠氏の連載「美術と文学―共鳴と相克」の第三回が、「国境を越えたロダンの魅力 リルケや白樺派も熱狂」で、日本に於けるロダン受容についても述べられ、光太郎に触れています。

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かなり長文ですので、全文は載せません。

「ロダンといえば彫刻、彫刻といえばロダンという感じで、近代彫刻の歴史における彼の地位は突出している。」にはじまり、ロダンの略伝、ヴィクトル・ユゴーやバルザック、ゾラ、ミルボー、そしてリルケら、文学者との交流が語られます。

そして日本に於けるロダン受容史的な話になり、白樺派とのかかわり、明治45年(1912)の与謝野夫妻によるロダン訪問、そしてわれらが光太郎がムードンのアトリエを訪ねたエピソードが紹介されています。

彫刻家にして詩人の高村光太郎は、08年ムードンのアトリエを訪ねた。ロダンは不在で会えなかったが、そこで彼の作品を前にした時、その量感と官能性に圧倒された、と後に回想している。

これはパリ留学中に有島生馬や山下新太郎らと共にムードンのアトリエを訪れたことを指します。晩年に書かれたエッセイ「遍歴の日」でその際の様子が語られています。それ以前にも明治40年(1907)11月、当時ロンドン留学中だった光太郎がパリに荻原守衛を訪ね、一緒にロダンのアトリエまで足を伸ばしていますが。2回とも正確に言うと、「会えなかった」というより、留守を狙って行ったふしがあります。高村家の家訓として、「あつかましいことは厳禁」といった戒めがあり、邪魔をしないようにという配慮があったようです。ただ、内妻のローズ・ブーレは在宅で、彼女にロダンの彫刻やデッサンの束を見せて貰ったりしてはいます。

特に目新しいことが書かれているわけではありませんが、「入門講座」と謳う連載ですので、それでいいと思います。ちなみに第一回はドラクロワ、第二回はゾラと印象派を主に取り上げていました。

当方、日経さんは購読しておりません。ネットでも、有料会員登録をしないと読めない記事の扱いになっていました(後で別の入り口から入ると読めたのですが)。そこで、こういう場合どうするか、といいますと、地元の市立図書館に行き、コピーをしてきます。おそらく全国の公立図書館でそれが可能だと思います。図書館にはそういう使い方もありますので、ご参考までに。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月21日000

昭和57年(1982)の今日、岩手花巻で、佐藤隆房著『非常の時』が刊行されました。

佐藤隆房は、宮澤賢治の主治医にして、光太郎とも交流を持ち、光太郎歿後は花巻に財団法人高村記念会を立ち上げ、初代理事長を務めました。

題名の「非常の時」は、昭和20年(1945)の花巻空襲の際、身を挺して怪我人の看護に当たった、佐藤率いる総合花巻病院の職員一同に光太郎が贈った詩の題名です。題字は光太郎筆跡を転用しています。

内容的には、『花巻病院新聞』などに掲載された佐藤の随筆を集めたもので、光太郎に触れる箇所もたくさんあります。

この前年に亡くなった佐藤の遺稿集という形で、子息の進氏(現・㈶花巻高村光太郎記念会理事長)によって私刊されました。