一昨日、昨日と、十和田湖ネタで攻めましたので、もう1日。

以前にご紹介した、光太郎作の十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)をあしらった十和田市のご当地ナンバープレートが今月から交付開始という報道が出ました。 

ご当地ナンバー「十和田湖と乙女の像」/十和田市が交付始める

 十和田市は2日から、「無題十和田湖と乙女の像」をデザインした原動機付き自転車用オリジナルご当地ナンバープレートの交付を始めた。交付第1号となったのは、同市法量家ノ前の山一清一さん(61)。同市役所で小山田久市長から「十和田市 A・・1」のプレートを受け取った。
 市は昨年、新市10周年記念事業として、ご当地ナンバーのデザインを公募。全国から寄せられた31点の中から、十和田湖と外輪山、湖畔のシンボル「乙女の像」をあしらったデザインを決めた。
十和田湖や奥入瀬渓流でボランティアガイドをしている山一さんは、「乙女の像など、一目で十和田のことが分かる良いデザインだと思う」と話し、「どうせなら1番がほしいと思っていたので、ラッキーです」とにっこり。
小山田市長は「このナンバーを付けて、古里を誇りに思い、また愛してもらいたい」と話した。市納税課によると、初日は5人に6枚のプレートを交付した。

東奥日報 2月4日(水)

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十和田市がオリジナルナンバーを交付

 十和田市が合併10周年を記念して作製した原動機付き無題2自転車用オリジナルナンバープレートの交付が2日、同市役所で始まった。申請者第1号は、十和田湖や奥入瀬渓流でボランティアガイドを務める山一清一さん(61)。「1番が欲しいと思っていたのでうれしい」と喜んでいる。
 ナンバープレートは、十和田湖と湖畔を象徴する乙女の像をデザイン。全国から応募があった31件の中で、グラフィックデザイナーの塩崎榮一さん(大阪府)の案が選ばれた。
この日、同市役所では交付開始と同時に山一さんが申請書を提出し、小山田久市長からナンバープレートを受け取った。山一さんは「十和田湖や奥入瀬渓流のPRになるいいデザイン。このナンバープレートを付けることで、十和田湖などに関心を持つ人が増えれば」と笑顔。小山田市長は「いろいろな場面で多くの人の目に留まる。観光PRの弾みになれば」と、効果に期待を寄せていた。
6日までは市役所本館1階の住民税課で、9日以降は同課のほか十和田湖支所でも受け付ける。問い合わせは十和田市役所税務課=電話0176(51)6765=へ。

【写真説明】小山田久市長(右)からナンバープレートを受け取る山一清一さん=2日、十和田市役所


このナンバープレート、ぜひ欲しいものです(笑)。

ところで、交付第一号の山一清一さん。たびたびご紹介しています十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会のメンバーで、ベテランのガイドさんです。

一昨年にはテレビ東京系BSジャパンさんの「にっぽん原風景紀行 第230景 稲生川に息づく開拓の歴史~青森県・十和田市」にご出演、奥入瀬渓流や稲生川で、女優の西原亜希さんをご案内なさっていました。

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さらに当方、昨年の今頃、「十和田湖冬物語2014」にお邪魔した際に、2日間にわたって車であちこちご案内いただきました。その山一さんが第一号の交付ということで、いい意味で笑えました。

乙女の像ナンバープレートは、十和田市のサイト、さらにブログにも紹介記事が載っています。また、同じ十和田市のブログ、それから十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんのサイトでは、開催中の「十和田湖冬物語2015」の記事も載っています。リンクをはってありますので、ご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月10日

明治37年(1904)の今日、日本政府からロシア政府への宣戦布告がなされ、日露戦争開戦となりました。

2日前にはロシア旅順艦隊に対する奇襲攻撃があり、実質的な戦闘状態に入っていましたが、正式な宣戦布告は10日です。

数え22歳の光太郎、東京美術学校の彫刻科を卒業した後も研究科に残って彫刻修行を続けていました。同じ2月にロンドンで刊行されていた雑誌『ステュディオ』でロダンの「考える人」の写真を初めて見て、衝撃を受けています(実物は数年後にパリで初めて見ました)。

戦後の昭和22年(1947)に書いた連作詩「暗愚小伝」の中では、この頃のことをこう謳っています。
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    彫刻一途

日本膨脹悲劇の最初の飴、
日露戦争に私は疎(うと)かつた。
ただ旅順口の悲惨な話と、
日本海々戦の号外と、
小村大使対ウヰツテ伯の好対照と、
そのくらゐが頭に残つた。
 私は二十歳をこえて研究科に居り、

夜となく昼となく心をつくして
彫刻修業に夢中であつた。
まつたく世間を知らぬ壷中の天地に
ただ彫刻の真がつかみたかつた。005
 父も学校の先生も職人にしか見えなかつた。
職人以上のものが知りたかつた。
まつくらなまはりの中で手さぐりに
世界の彫刻をさがしあるいた。
いつのことだか忘れたが、

私と話すつもりで来た啄木も、
彫刻一途のお坊ちやんの世間見ずに
すつかりあきらめて帰つていつた。
日露戦争の勝敗よりも
ロヂンとかいふ人の事が知りたかつた。


「ロヂン」とは仏語表記の「Rodin」を英語風に読むとそうなるということで、この頃は正確な発音さえ判っていなかったということです。

この時期、というかしばらく後までの光太郎、この詩にある通り、社会問題にはほとんど関心を示さず、ひたすら芸術精進、という感じでした。後に、そうした態度が智恵子の統合失調症発症につながったという反省から、一転して社会と積極的に関わろうとするようになります。それが泥沼の十五年戦争の時期と重なっていたのが、大きな悲劇でした。

画像は掲載誌の『展望』から採りました。「対照」とすべき箇所が「対称」となっています。遺された詩稿でも「対称」となっており、もともと光太郎が間違っていました。このミスは昭和25年(1950)に刊行された詩集『典型』でも修正されず、同27年(1952)の『高村光太郎選集Ⅱ』でようやく訂正されました。