一昨日の『産経新聞』さんに、以下の記事が載りました。 

【「戦後日本」を診る 思想家の言葉】吉本隆明 政治に流されない感受性

■東日本国際大教授・先崎彰容

 昭和43年のことである。

 一冊の書物が世間を震撼(しんかん)させた。

 吉本隆明『共同幻想論』である。国家の成りたちの起源を『古事記』と『遠野物語』を徹底的に読むことで明らかにしたこの書は、熱狂的な歓迎を受けた。たしかに難解である、でも読まざるをえない、理解できなくても読んだと言わざるをえない、そんな雰囲気が学生を中心に漂っていたのだった。

 だが忘れてはいけない、吉本隆明はそれ以前、まずは「詩人」として文壇に現れたことを。高村光太郎について、言語にとって美とは何かについて考えると同時に、共同体とは何か、私たちにとって国家とは何かが問われた。こうして『共同幻想論』は世にでたのである。

 これらの問題意識は、一点から始まっている。それは戦争の「あの瞬間」からである。戦争体験、これが吉本を詩人にし、かつまた国家を問い続けることを強いたのである。

 たとえば戦争中、少年吉本は、自分の全てを動員して今回の戦争とは何かを考えつづけていた。結論は出た、今回の戦争は正しいものであり、自分はそのために死ぬべきであると思った。

 だが敗戦のあの日以来、世間はガラリと変わってしまう。戦争は誤りであり悪であり間違っていたというのだ。だとすれば、あの時自分の全てを賭けて出した結論は不正解だったことになる。どれだけ真剣に真面目に出した結論であっても、人間は間違う可能性があるのだ。

 8月15日を境に、世間の価値観は百八十度転換した。にもかかわらず、人びとは何事もなかったかのように生きているではないか。戦後に配給された価値観になんら疑いをもたず飛びつき生きている。この事実を吉本は理解できなかった。昨日まで骨の髄まで正しいと思っていたことが崩壊する。なのに、人はなぜ傷つかないのか、つまずかないのか。

 激しい人間不信が、吉本を襲ってきた。社会全体は嘘で塗り固められている。しかも自分もまた、いくら真剣に考えてもその嘘にだまされてしまう。私たちはなんとつまらない存在なのだ-だから吉本は、人間を生への根源的違和感を抱えたもの、こう定義した。もっと分かりやすく言おう、つまずいて生きている不器用な人間にとって、人生は、吐き気を感じるような面倒くさい営みなのだ。

 だから吉本は詩を書いた。言葉を紡ぐことで、どうにかして世間に流されないようにしたかった。戦後民主主義はもちろん、政治的な自由を絶叫するスターリン的マルクス主義も、私は絶対に信じない。なぜなら彼らは、繊細な個人の心を全て政治運動にささげよ、こう言ってくるからだ。

 なぜ彼らはそんなに政治が好きなのか。スローガンに流されるのか。言葉が政治に敗れていることに気づかないのか。

 ある日、吹く風に顔を上げ春の到来を知り、生きようと思う。そんな感受性を棄(す)ててまで、政治活動にささげる自由を私は信じない-「元個人(げんこじん)とは私なりの言い方なんですが、個人の生き方の本質、本性という意味。社会的にどうかとか政治的な立場など一切関係ない。生まれや育ちの全部から得た自分の総合的な考え方を、自分にとって本当だとする以外にない」(『「反原発」異論』)。

 この感受性に注目すべきだ。

 小林秀雄と江藤淳さらには福田恆存(つねあり)、そう、わが国で批評家になるための必要条件は、この繊細で弾力ある感性の系譜にあった。政治的な左右は、批評家にとって重要ではない。批評家になったつもりで一家をなせば、そこにまた他者との比較、批判、排除がおきている。党派をなして、人を罵(ののし)る。これはもう立派な政治ではないか。

 感性とは不断の自己点検、自分が政治的になることへの警戒である。晩年まで主張した吉本の反原発批判も、こうした感性から読まれるべきなのである。


 次回「高坂正堯(まさたか)」は3月5日に掲載します。


 ■知るための3冊

 ▼『共同幻想論』(角川ソフィア文庫) 刊行当時、熱狂的な支持をもって迎えられたこの書は、一方で難解であることでも知られる。吉本が「詩人」として出発したことを念頭に序文を精読すれば、この書の問題意識が見えてくるはずだ。
 ▼『吉本隆明初期詩集』(講談社文芸文庫) 吉本が詩人として出発したことは、くれぐれも忘れてはならない。「エリアンの手記と詩」「固有時との対話」「転位のための十篇」など初期吉本を語るうえで欠かせない詩を全て収める。
 ▼『「反原発」異論』(論創社) 東日本大震災以前から、吉本は一貫して反核運動に批判的な立場をとり物議をかもした。本書は震災直後からのインタビュー記事などを含む、最晩年の遺著的著作。


【プロフィル】吉本隆明
 よしもと・たかあき 大正13(1924)年、東京生まれ。東京工業大卒業。工場勤務のかたわら私家版の詩集などを発表し、昭和30年代に本格的に評論活動を開始。既成左翼を批判しつつ、『言語にとって美とはなにか』『共同幻想論』など独自の思索を発表、全共闘世代から熱烈な支持を得る。バブル期には大衆消費社会を肯定して注目された。平成24年、死去。


【プロフィル】先崎彰容
 せんざき・あきなか 昭和50年、東京都生まれ。東大文学部卒業、東北大大学院文学研究科日本思想史専攻博士課程単位取得修了。専門は近代日本思想史。著書に『ナショナリズムの復権』など。


イメージ 1


吉本氏が亡くなってもうすぐ3年。新たに全集の刊行も始まり、このところ、「結局、吉本とは何だったのか」という検証が活発になってきました。NHKさんの教養番組「日本人は何をめざしてきたのか。 知の巨人たち」で取り上げられたりもしています。

その思想的源流の一つとなった、戦時中の光太郎についての検証。吉本を考える際に併せて考えていただきたい問題だと思いますし、吉本が出し切れなかった答えは、後の我々に託されたのだと考えたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月7日004

大正15年(1926)の今日、詩「象の銀行」を執筆しました。

   象の銀行

セントラル・パアクの動物園のとぼけた象は、
みんなの投げてやる銅貨(コツパア)や白銅(ニツケル)を、
並外れて大きな鼻づらでうまく拾つては、
上の方にある象の銀行(エレフアンツバンク)にちやりんと入れる。

時時赤い眼を動かしては鼻をつき出し、
「彼等」のいふこのジヤツプに白銅を呉れといふ。
象がさういふ、
さう言はれるのが嬉しくて白銅を又投げる。

印度産のとぼけた象、
日本産の寂しい青年。
群集なる「彼等」は見るがいい、
どうしてこんなに二人の仲が好過ぎるかを。

夕日を浴びてセントラル・パアクを歩いて来ると、
ナイル河から来たオベリスクが俺を見る。
ああ、憤る者が此処にもゐる。
天井裏の部屋に帰つて「彼等」のジヤツプは血に鞭うつのだ。


明治39年(1906)から翌年にかけての、ニューヨーク留学中の記憶を元にした詩です。のちのロンドンやパリではそういうこともなかったようですが、最初に滞在したニューヨークでは、かなりあからさまな人種差別にあった光太郎、同じアジア産の動物園の象に、自らの姿を仮託しています。

以前にも書きましたが、この「象の銀行」、光太郎の詩の中では比較的有名な一篇であるにもかかわらず、初出誌が不明です。昭和4年(1929)に改造社から刊行された、いわゆる「円本」の「現代日本文学全集」第37篇『現代日本詩集/現代日本漢詩集』に収められていますが、それ以前にどこかの雑誌などに発表されているはずです。しかし、どこに発表されたのかが判っていません。

情報をお持ちの方はこちらまでご教示いただければ幸いです。