新刊、といっても昨年12月の刊行です。
株式会社金曜日刊 発売日 2014/12/11 著者:  辺見庸・佐高信  定価:  1500円+税

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版元サイトより

「人間はここまでおとしめられ、見棄てられ、軽蔑すべき存在でなければならないのか」――辺見庸

侵略という歴史の無化。軍事国家の爆走と迫りくる戦争。人間が侮辱される社会・・・。二人の思索者が日本ファシズムの精神を遡り、未来の破局を透視。誰かが今、しきりに世界を根こそぎ壊している。日本では平和憲法を破棄しようとする者が大手を振っている。
喉元に匕首を突きつけて私たちは互いに問うた。なぜなのだ?あなたならどうする?呻きにも似た、さしあたりの答えが本書である。

目次
第1章 戦後民主主義の終焉、そして人間が侮辱される社会へ
コンピュータ化と人間身体/資本と安倍ファシズム/もはや「どつきあい」は避けられない/スムーズに消してゆく装置/サブスタンスはあったのか/死ぬ気でやるのか

第2章 「心」と言い出す知識人とファシズムの到来
ジャーナリストのパッション/ジャーナリストとは、ゆすり、たかり、強盗/「心」と「美しい国」と同じ/どちらにも展望はない/ファシズムの情動的基盤

第3章 「根生い」のファシストに、個として闘えるか?
知性の劣化/訴えられる覚悟/共産党も巻き込んだ「祖国防衛論争」/なかったふりをするな/「禁中」と天皇利用主義者/決断を迫られる時がくる

 
第4章 日本浪曼派の復活とファシズムの源流
老いと夜/日本浪漫派の血脈/慰安婦問題を身体的なこととしてとらえる/日本思想史の中の免罪の歴史/実時間の表現

第5章 ジャーナリズムと恥
クーデター、三島由紀夫と安倍晋三/偽なるものの力能/書くことと自己嫌悪/特定秘密保護法とジャーナリズムの恥

第6章 とるに足らない者の反逆
魯迅のアナキズム/中国という圧倒的事実/とるに足らないものからの発想/絶望の深みから

第7章 歴史の転覆を前にして徹底的な抵抗ができるか?
これから何が起きないかはわかる/歴史の転覆/否定的思惟がなくなった/徹底的な抵抗の弾け方/権力こそが非合法

第8章 絶望という抵抗
真実の不確定性、記憶のうごめき/自己申告する歴史と、見られた歴史/年寄りが鉄パイプを持って突撃する/身体を担保した抵抗

ジャーナリスト・辺見庸氏と、評論家・佐高信氏の対談集です。元々は雑誌『週刊金曜日』の連載でしたが、さらにそれをふくらませたものです。ともに左派の論客として知られるお二人だけに、今をときめく人々をバッサバッサと斬りまくっています。

斬られている主な人々は以下の通り。敬称は略します。

まず、安倍晋三、麻生太郎、百田尚樹、籾井勝人、曾野綾子、田母神俊雄、長谷川三千子、小松一郎といった右寄り(極右?)の人々。それでいて、元産経新聞社長の住田良能などには高い評価。そうかと思えば、御厨貴、池上彰、姜尚中、古舘伊知郎、五木寛之、吉本隆明、大江健三郎といった人々もバッサバッサ。そういう意味ではバランスは取れています。

その対象は歴史的な人々にも及び、保田與重郎、石原莞爾、三島由紀夫、渡辺一夫、唐牛健太郎、斎藤茂吉らもメッタ斬りです。

光太郎も俎上に登っていますが、好意的に扱われています。

佐高 藤沢周平を思い出しました。一見すると穏やかな人ですが、珍しく講演で、同郷の歌人である斎藤茂吉を痛罵しているんです。その際、斎藤茂吉に高村光太郎を対置している。高村光太郎は戦中に戦争協力詩を書いたことを自己否定し、戦後しばらく花巻に隠棲する。それにくらべて斎藤茂吉は何の反省もしていない、と。(略)自己批判というものがなかった戦後日本の風景の中では、高村光太郎の自己否定には胸を打つものがありますよね。
辺見 そうですね。吉本(隆明)さんも高村光太郎の自己否定から出発しているところがあると思います。光太郎の反省の深さはおっしゃるとおり、「個」として過ちを引きうけている点でこの国では例外的ではないでしょうか。

ただし、おさえるところはきちんとおさえています。

辺見 でもぼくは、高村が自己否定に至るまでに相当の戦争協力詩を書いていることを決して見逃したくないんです。高村にかぎらず、たいていの詩人や作家がそうなんですが、戦争詩となると呆れるほど下手になるのですよ。なぜか。一つは、結局プロパガンダにすぎないからです。もう一つは、個人として十五年戦争の根っこと未来を見通す知性がなかったからです。それは日本の誰一人としてなかったと思う。これは無惨なことですよ。

逆に光太郎の戦争詩だけをことさらに取り上げて、「これぞ大和魂」などともちあげる愚昧なヘイトスピーカー、ヘイト出版社がありますが、そういう輩にこそ、この書を読んでほしいですね。

しかし、惜しむらくは出版のスピードが、世の中のスピードに追いつかないという点。昨年暮れの大義なき抜き打ち解散総選挙や、昨今のイスラム国の問題などはこの出版に間に合っていません。そういう意味でも続編を期待します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月6日

大正5年(1916)の今日、雑誌『美術週報』に、智恵子のエッセイ「女流作家の美術観」が掲載されました。

 批評は要らない、是非の批評はすべての004専門家にある、たゞ私には、なくて叶はぬものとしてある、この芸術を、考へるさへ、身にあまる幸福を感じられる。
 さまざまな時代に、まことの芸術家達が、それぞれ自身の生命を掘り下げて行つた。その作品は、いきていまも、私達の前に息づく、それ等のものは、魂をめざめさせる、恰も自然が私達をめぐむ恵のやうに、清らかに力強く、押迫つて透徹する、私はそれ等の彫刻を愛し、それ等の絵画を思慕してやまない。心の底からその作者を尊敬し、又は崇拝してゐる。
 ロダンはあらゆる時代の魂の積畳であつて、又海山の自然の反映であるとおもはれる。暁のやうなその作品は、暗い魂に、鋭い光りと優しい温味とを、ほのぼのと投げかける。ロダンをおもふことは私の、栄光である。セザンヌもまた、親しく自分のいまの生活に、糧となつて輝いてゐる、たくさんの星のなかで、この二人をかぞへて、今は、うらみとはしまい、その一つも、どれ程大きなことであらう。古くから、又それぞれの世に、光りは輝くのだ。私は愛念をもつて、それ等を仰ぎみて、よろこびにあふれる。
 そして近くこの日本の芸術にも、私はそれ等の美しい魂を見ることの出来る幸をものべておかう。

明らかに光太郎の影響が見とれる文章です。