全日本合唱連盟さん刊行の季刊雑誌『ハーモニー』の171号(2015年冬号)が発行されました。
 
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昨秋、岩手県民会館大ホール他で行われた第67回全日本合唱コンクール全国大会のレポートが掲載されています。アルバム的なページが4ページと、「審査員座談会」ということで、全出場団体の講評が載ったページが約40ページ。
 
高校部門Aグループ(8~32人)で、光太郎作詞、鈴木輝昭氏作曲の「女声合唱とピアノのための組曲 智恵子抄」」から自由曲を選び、ともに上位入賞を果たした神奈川の清泉女学院高校さんと、北海道の帯広三条高校さんの分をご紹介します。
 
まず、「亡き人に」を自由曲に選び、金賞に輝いた清泉女学院さん。
 
清水敬一(合唱指揮者) 清泉女学院(神奈川)の課題曲の歌い出しはちょっと気持ちが硬かったかな。でも歌い進むにつれて安定して、指揮者と合唱団の関係性の良さが出ました。自由曲はクリアでバランスがいい。ダブルコーラスをかなり離した位置関係に置くことで、音空間的な立体感を出すことに成功したと思います。終盤に向かっての流れもとても良かった。ただ細部がやや粗く、瑕(きず)に聞こえてしまったのが残念。
本山秀毅(合唱指揮者) 響きが美しく高くて、アンサンブルを整えて、がならずに軽く音楽のメッセージを作る団体の筆頭。技術的に安定しているのもよくわかりました。こういう合唱団が注意しないと行けないのは硬い音になることですが、課題曲はやわらかく息で運ぶ配慮もあったし、ラストの和音も素晴らしかった。自由曲の思い切った配置は成功していたとぼくも思います。勇気が要るだけに敬意を表したい。エコーの効果もうまく出たしね。速いテンポの8分音符は、もっと言葉で動かしたら面白いのにな。無機的なものから有機的なものを生み出すというスタンスで歌うといいと思います。
 
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続いて、自由曲「レモン哀歌」で銀賞を獲得した帯広三条さん。
 
本山 北海道の響きって奥行きがあって澄んだイメージ。帯広三条(北海道)はその期待通り、響かせて歌うことを心得た演奏でした。課題曲はその特質を生かした清潔感のある音楽。自由曲はピアノの音と硬質の響きが一致して、抒情が生きた心地よいアンサンブルでしたね。これからは、その音をうまく使ってその先の表現をどうするかが課題だな。
清水 課題曲は言葉一つ一つに気持ちの揺れが表現されていて、同時にフレーズ全体が音楽的にまとめてある良い演奏。声部間のバランスもいい。自由曲は音楽の変化にもっと感情の変化を乗せれば、さらにドラマを抉(えぐ)れると思います。作品自体をよく捉えていましたが、自分たちが演奏するという方向にぐっと近づけることも可能じゃないかな。
 
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他の部門では、光太郎がらみの曲をあつかった団体はありませんでした。いろいろな作曲家の方が、光太郎の詩で素晴らしい合唱曲を作られています。全国の合唱団の皆さん、ぜひレパートリーに加えてみて下さい。
 
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そういうもののうち、同じ『ハーモニー』の171号(2015年冬号)中の「新刊楽譜」というページで、光太郎作詞、三好真亜沙さん作曲の「女声合唱とピアノのための「冬が来た」」が紹介されています。
 
こちらは昨年8月30日、四ッ谷の紀尾井ホールで開催された演奏会「The Premiere Vol.3 〜夏のオール新作初演コンサート〜」で初演されたものです。
 
さらに、一つ前の号ですが、『ハーモニー』170号(2014年秋号)には、「The Premiere Vol.3 〜夏のオール新作初演コンサート〜」のレポートも載りました。
 
 
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 また近くなりましたらご紹介しますが、3月には福島で「第8回声楽アンサンブルコンテスト全国大会 -感動の歌声 響け、ほんとうの空に。-」が開催されます。やはり「ほんとうの空」と銘打たれているのですから、光太郎詩による合唱曲が演奏されてほしいものです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月21日

昭和24年(1949)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、岩手時代7冊目の日記帳を書き終えました。
 
光太郎はしっかり日記を書く人でした。確認されている最も古い日記は、明治36年(1903)から翌年にかけての「彫塑雑記」と題されたもの。千駄木の実家に遺されていたため、現存します。ところがその後も、おそらく書いていたものの、昭和20年(1945)の空襲で灰になってしまったと推定されます。
 
同年、岩手花巻の宮澤賢治の実家に疎開してから、亡くなる昭和31年(1956)までの日記は計14冊遺されています。
 
ところが、66年前の今日書き終わった7冊目の後の、約2年分が失われています。昭和24年(1949)1月22日から同25年(1950)12月30日までの分です。25年12月31日から亡くなるまでの分は揃っています。その間、日記を書かなかったとは考えにくいのですが、現存が確認できていません。今もどこかに眠っているのではないかと推定されます。情報をお持ちの方はこちらまでご教示いただければ幸いです。
 
ちなみに66年前の今日書き終わった7冊目の最後はこうなっています。
 
一月二十一日、
曇、晴、凍結ナシ。 朝ハカキ書、クツ下つくろひ。黒クツ下。 ひる学校行。平賀先生が以前托した百円で明太の子を買つてきてくれる。 学校までの往復の雪道もかたまりて歩きよくなれり。 兎や狐の足跡此頃ふえる。 ひる小豆だんご。あたためてくふ。 午后はくらくてつくろひもの不適。 三時になるともう夕飯の支度。 ランプ掃除。其他。 六時過夕食。明太の子甚だ塩からく、大根おろしにてくふ。大根おろしの運動出血を誘ふおそれあり。長く出来ず。 今朝鼻血が少しく出でたり。 夜コタツにて読書。 風なし。 夕方村長さん宅の梅夫さん選挙入場券等を届けにくる。班長当番のよし。選挙明後日なり。<夕方便
 
こちらは翌年、手紙に書いた狐と兎の足跡の図です。
 
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