先週土曜日、東京国立博物館黒田記念館を後にして、谷中、根津を経由して徒歩で本郷に向かいました。このエリアには当方の好きなレトロな建物がよく残っており、大好きな街の一つです。
さて、日展の新会館前を過ぎ、現在の谷中6丁目。総持院という小さなお寺があります。このあたりの一角で、少年時代の光太郎とその一家が暮らしていました。明治23年(1890)~同25年(1892)のことです。ただし、光太郎の住居があった場所そのものは道路になってしまっているそうです。
明治22年(1889)に、光雲は東京美術学校に奉職することになって、翌年、仲御徒町から谷中に転居、このあたりから通勤していました。光太郎は日暮里小学校(現・第一日暮里小学校)に転校、尋常小学校の課程を終え、高等小学校の課程は下谷小学校に通いました。
この谷中での約3年間に、光太郎一家にはさまざまな出来事がありました。弟の豊周と孟彦(藤岡家に養子)が生まれたのもこの時期です。光雲は帝室技芸員を拝命、楠公銅像の木型制作主任となり、さらにシカゴ万博に出品された重要文化財「老猿」もここで作られました。
しかし、光太郎の姉のさくが肺炎で歿したのも、ここ谷中で、光雲は目の中に入れても痛くないほどかわいがっていた娘の死に落胆、つらい思い出の残る谷中を引き払って、千駄木に移ります。
さて、光太郎に「谷中の家」という散文があります。昭和14年(1939)、雑誌『新風土』に掲載されました。一部、抜粋します。
家は古風な作りで、表に狐格子の出窓などがあつた。裏は南に面して広い庭があり、すぐ石屋の石置場につづき、その前には総持院といふ小さな不動様のお寺があり、年寄りの法印さまが一人で本尊を守つてゐた。父の家の門柱には隷書で「神仏人像彫刻師一東斎光雲」と書いた木札が物寂びて懸けられてゐたが此は朝かけて夕方とり外すのが例であつた。
私の少年時代の二三年はここで過された。私は花見寺の上の諏訪神社の前にあつた日暮里小学校に通つてゐた。車屋の友ちやん、花屋の金ちやん、芋屋の勝ち やん、隣のお梅ちやん、さういふ遊び仲間と一緒にあの界隈を遊びまはつた。おとなしい時は通りの空どぶへ踏台を入れて隣のお梅ちやんなどとまま事をした り、石置場でゴミ隠し、かくれんぼをしたりした。男の子が集まると多く谷中の墓地へ押し出して鬼ごつこいくさごつこをやつた。
そんなこんなに思いを馳せながら、谷中を通り過ぎ、根津へ。
谷中の光太郎旧居周辺は最初から通るつもりでしたが、根津では人の流れに乗って、当初行く予定ではなかった根津神社に参拝しました。このあたりも光太郎がよく歩いた一角ではあります。
その後、本郷に行き、北川太一先生を囲む新年会に参加させていただきました。
来年もお招きいただけると思いますので、やはりこのエリアで、光太郎智恵子光雲ゆかりの地などを訪ねようと思っています。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月13日
明治41年(1908)の今日、日本画家・橋本雅邦が歿しました。
狩野派の流れを汲む雅邦は、光雲同様、岡倉天心に見出され、初期の東京美術学校絵画科で教鞭を執りました。
天心がバッシングされた美術学校事件で、天心と共に辞職、日本美術院を立ち上げる明治31年(1898)まで美術学校に在職、光雲と同僚であった他、彫刻科でも臨画の授業を担当し、光太郎も教わりました。
明治27年(1894)、美校の第2回卒業記念写真から採りました。左から光雲、黒川真頼、岡倉天心、橋本雅邦、川端玉章です。