講談社さんから10月に刊行された、池川玲子さん著『ヌードと愛国』。明治期に智恵子の描いたヌードデッサンなどについて触れています。
さらに『産経新聞』さんにも載りましたので、ご紹介します。
フォト・ライター野寺夕子が読む『ヌードと愛国』池川玲子著
著者池川は研究者だ。近現代女性史を専門とする。時々刑事コロンボに変身する。読者に惜しげもなく資料のヌードを見せてくれる。そして鮮やかに謎解きをしてみせる。しつこい。コロンボだから。ねばり強いのに、文は潔い。
「一九〇〇年代から一九七〇年代に創られた『日本』をまとった七体のヌードの謎を解く」という(七体それぞれに手掛かりの写真や絵が加わるから、本の中にはヌードがいっぱいだ)。別々に創られたヌードだが、時系列に並べてみると近現代史の見慣れた語句とつながり、生き物みたいに動き出す。帝国主義とか移民政策とか民族主義とか資本主義とか。大陸の花嫁、婦人解放と婦人警官、安保、ウーマン・リブ、大量消費…。ヌードは裸体だが「はだか」ではない。まとっていないようで、まとっている。見えない衣を見ようとしてきた先達がいて池川が自論を重ねていく。著者自身が、謎解きをする自分に刺激されてきたろう。
智恵子抄の智恵子が描いた百年前のリアルすぎる男性デッサンから第一章が始まる。輸出用映画しかも官製(しかも真珠湾攻撃の年)の宣伝映画に映るヌード。女性初の映画監督がいて、異端児・武智鉄二監督がいる。第七章で凝視するのは「裸を見るな。裸になれ。」-70年代のパルコのポスターだ。アートディレクター石岡瑛子のヌードへの執着を池川は丹念に追う。70年代の女性像。70年代の東洋と西洋の色。石岡の見せた誇り(プライド)と隠した怒りを、書く。その肯定的な書き方が、新鮮だった。
この章に続くあとがきに、写真集『臨月』が出てくる。百人の臨月の女性を白黒で、自然光だけで撮ったドキュメントヌード。私の本だ。1996年度の太陽賞(平凡社主催)の審査では、荒木経惟らとともに石岡瑛子も選考委員を務めた。池川の描く石岡像を読んで、20年近くも経(た)ってこの人にやっと出会った、という気がしている。
あとがきで「今の女子学生が気にするヌード」を挙げたことで、池川は、さあて、またここから、と動き出すだろう。現代史家はタフだね。(講談社現代新書・800円+税)
だいぶ注目されているようですし、実際、かなりの力作です。ぜひお読み下さい。
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月26日
昭和25年(1950)の今日、詩「遠い地平」を執筆しました。
遠い地平
なかなか危ない新年が
平気な顔してやつてくる。
不発か時限か、
ぶきみなものが
そこらあたりにころがつて
太平楽をゆるさない。
人の命のやりとりが
今も近くでたけなはだ。
日本の脊骨岩手の肩に
どんな重いものがのるかのらぬか。
都会は無力な飯くらひ、
それを養ふ田舎の中の田舎の岩手。
新年は花やかに訪れても
岩手はじつくりうけとめて、
その眼が見るのは遠い地平だ。
翌年元日の『新岩手日報』のために書いた詩です。
「人の命のやりとりが/今も近くでたけなはだ。」は、朝鮮戦争、第一次インドシナ戦争あたりを指していると考えられます。東京には見切りを付け、花巻郊外太田村という辺境にいながら、光太郎は世界を見つめています。
ところで、先の総選挙では自公が圧勝。第三次安倍政権の陣容が発表されました。改憲に意欲を示す安倍総理ですが、くれぐれも「人の命のやりとり」を「たけなは」にできる国にしてほしくないものです。しかし、どうなることやら、ですね。そういう意味でも、もうすぐやってくる平成27年(2015)も、「ぶきみなものが/そこらあたりにころがつて/太平楽をゆるさない」「平気な顔してやつてくる」、「なかなか危ない新年」だと思います。