【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月18日
 
大正15年(1926)の今日、駒込林町のアトリエを、宮澤賢治が訪れました。
 
20日という説もあるそうですが、賢治と光太郎、二人の天才の、最初で最後の出会いでした。
 
光太郎の談話筆記「宮澤さんの印象」(昭和21年=1946 『ポラーノの広場』)、全文です。
 
 宮澤さんは、写真で見る通りのあの外套を着てゐられたから、冬だつたでせう。
 夕方暗くなる頃突然訪ねて来られました。
 僕は何か手をはなせぬ仕事をしかけてゐたし、時刻が悪いものだから、明日の午後明るい中に来ていただくやうにお話したら、次にまた来るとそのまま帰つて行かれました。
 あとで聞いたら、尾崎喜八氏の所にも寄られたさうで、何でも音楽のことで上京されたらしく、新響の誰とかにチエロを習ふ目的だつたやうです。十日間で完成するつもりだと言つてをられたさうです。
 あの時、玄関口で一寸お会ひしただけで、あと会へないでしまひました。また来られるといふので、心待ちに待つてゐたのですが……。口数のすくない方でしたが、意外な感がしたほど背が高く、がつしりしてゐて、とても元気でした。
 
ちなみに上野の聚楽で光太郎と賢治が会食をした、という伝聞がまことしやかに伝えられていた時期がありましたが、どうも眉唾もののようです。

二人を結びつけたのは草野心平でした。
 
心平と光太郎の出会いは、大正14年(1925)。心平は、中国の嶺南大学留学中に知り合った詩人・黄瀛(こうえい)に連れられて、駒込林町の光太郎アトリエを訪れ、以後、足繁く通うようになります。
 
心平が前年に刊行された賢治の詩集『春と修羅』を光太郎に紹介、光太郎はその詩的世界を激賞しました。また、光太郎は黄瀛からやはり同じ年に刊行された童話集『注文の多い料理店』を借り、その素晴らしさを広めるため、さらに水野葉舟に又貸しするなどしています。
 
光太郎の賢治評です。
 
内にコスモスを持つものは世界の何処の辺遠に居ても常に一地方的の存在から脱する。内にコスモスを持たない者はどんな文化の中心に居ても常に一地方的の存在として存在する。岩手県花巻の詩人宮澤賢治は稀にみる此のコスモスの所持者であつた。彼の謂ふところのイーハトヴは即ち彼の内の一宇宙を通しての此の世界全般のことであつた。
(「コスモスの所持者宮澤賢治」 昭和8年=1933 『宮澤賢治追悼』)
 
 宮澤賢治の全貌がだんだんはつきり分つて来てみると、日本の文学家の中で、彼ほど独逸語で謂ふ所の「詩人(デヒテル)」といふ風格を多分に持つた者は少いやうに思はれる。往年草野心平君の注意によつて彼の詩集「春と修羅」一巻を読み、その詩魂の厖大で親密で源泉的で、まつたく、わきめもふらぬ一宇宙的存在である事を知つて驚いたのであるが、彼の死後、いろいろの詩稿を目にし、又その日常の行蔵を耳にすると、その詩篇の由来する所が遙かに遠く深い事を痛感する。
(略)
彼こそ、僅かにポエムを書く故にポエトである類の詩人ではない。そして斯かる人種をこそ、われわれは長い間日本から生れる事を望んでゐたのである。
(「宮澤賢治に就いて」 昭和9年=1934 『宮澤賢治全集内容見本』)
 
他にも繰り返し、光太郎は賢治を激賞しています。
 
さらに三回にわたる『宮澤賢治全集』の発刊に関わり、花巻に建てられた「雨ニモマケズ」碑の揮毫をしたりもした光太郎を、宮澤家でも恩人として遇し、昭和20年(1945)、空襲で駒込林町のアトリエを失った光太郎を花巻に呼び寄せたことはあまりにも有名です。その結果、賢治の父・政次郎や賢治の弟・清六とは、年齢差を越えた深い交流が生まれました。
 
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こちらは先程も名前の出て来た尾崎喜八撮影の写真。左から光太郎、心平、清六、そして賢治の甥の幸三郎です。昭和9年(1934)、駒込林町のアトリエ前です。ここで賢治と光太郎も出会いました。
 
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こちらは花巻郊外太田村山口の山小屋。政次郎・イチ夫妻と光太郎です。
  
光太郎と賢治、実は、二人が出会うチャンスはもう一度ありました。それは昭和6年(1931)夏、賢治は東北砕石工場技師を務めるかたわら、童話「風の又三郎」を書いていた時期です。光太郎は『時事新報』の依頼で紀行文を書くため、女川を含む宮城、岩手の三陸海岸を旅しています。その際に賢治は光太郎が花巻に寄ってくれることを望んでいたそうですが、実現しませんでした。
 
細かな事情は不明なのですが、光太郎が旅している間に、東京では智恵子の統合失調症の症状が顕著となったということで、もしかするとその知らせを受けた光太郎、急ぎ帰宅したのかも知れません。

追記 どうも船の関係のような気もしてきました。光太郎、東京―三陸間も船で移動した可能性があり、そうすると、船の便が月2本しかなかったのです。

それにしても、賢治と光太郎、たとえ一度でも実際に出会っていることの意味は大きいでしょう。光太郎にしても、賢治と出会わずじまいであれば、どんなに書かれたものを読んで感心したとしても、あれほど激賞することはなかったのではないかと思います。 
 
この二人の最初で最後の出会いが、88年前の今日。感慨深いものがあります。
 
実は当方、賢治が書いたり発言したりした光太郎評については不分明です。詳しい方、はこちらまでご教示いただければ幸いです。