昨日のこのブログにて、近々放映されるテレビ番組の情報を載せました。記事を書いたのが午前中。午後になって、ふとテレビをつけると、地上波TBSさんで、内田康夫さん原作の「浅見光彦~最終章~ 最終話 草津・軽井沢編」というドラマの再放送が放映中でした。平成21年(2009)に連ドラとして放映されたもので、光太郎彫刻の贋作を巡る事件という設定の「「首の女」殺人事件」を原作としているものです。
この「蝉」は美術さんの作品と思われますが、なかなか良くできていますね。
浅見光彦役は沢村一樹さん。お母さんの雪江役は佐久間良子さん。
ちなみに佐久間さんは平成3年(1991)11月9日にNHK総合で放映された単発のドラマ「極北の愛 智恵子と光太郎」(脚本・寺内小春)で智恵子役を演じられました。光太郎役は小林薫さんでした。
昨日の「浅見光彦~最終章~」、ネットのテレビ情報欄で「光太郎」のキーワード検索にヒットしなかったため、この放送が昨日あったことを事前に気づかず、紹介しませんでした。「やっちまった」感でいっぱいです。
まあ、何度か再放送されていますので、また放映があるでしょうし、DVDも発売されています。
ちなみにDVDには、よくある「特典映像」としてメイキング風景が収められており、第1話「恐山・十和田・弘前編」の関係で、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)が紹介されています(ただし第1話本編にはこの像は出てこなかったと記憶しています)。
ぜひお買い求め下さい。
閑話休題。
日曜日の『読売新聞』さんに、智恵子について触れた池川玲子さん著『ヌードと愛国』の書評が載りましたのでご紹介します。
『ヌードと愛国』 池川玲子著 投影される深い意味
「ヌードは意味を着ている」
たしかにそうだ。ヌードは服を着ていないが故にヌードであるが、だからと言って服を着ることによってまとうような意味が欠落しているわけではない。
時に、服を着ていないが故に深い意味が投影される。高尚な芸術作品にも下劣なわいせつ物にも。近代の先端にも前近代の残余にも。たくましく魅力的にも弱々しく貧相にも。
本書は1900年代から70年代まで、その時々の社会で注目された七つのヌード作品をとりあげながら、そこにいかなる意味があるのか分析していく。ヌードとの関係で論じられる対象は竹久夢二、外国人観光客誘致映画、満州移民プロパガンダ映画など、一見脈絡がなく多様に見える。ただ、一本の筋も通っている。そこでは近代化の中で現れる日本と西洋、女性と男性の間にある緊張の変化が追われているのだ。
例えば、高村光太郎『智恵子抄』で有名な高村智恵子が描いたヌードについて論じた章がある。智恵子は男性ヌードのデッサンの際に「おかしいほどリアル」に股間を描くと、同じ時に美術を学ぶ男子学生の回想に書かれていた。しかし、調べてみれば、実際に智恵子が描いたとされるデッサンはそのようなものではない。では、なぜ……。
結論を言えば、このエピソードの背景には、当時の西洋の先端的な美術のあり方を知る智恵子の姿、あるいは、社会における女性への「良妻賢母」的な役割の変化などが存在する。ただ、この結論自体はそれほど重要ではない。本書の面白みは、この結論を論証するプロセスにほかならない。謎解き形式で進む文体はとても読みやすく、他の様々な事例も含めて読み通すことで、幅広い社会史・美術史の知見を得ることができるだろう。
ページをめくるごとに明かされる、何気ない作品の細部に隠された重要な意味。それを何重にもみせる著者の力量に驚かされ続けた。
なかなか的確な書評です。実際、非常に読みごたえのある書籍でした。こちらもぜひお買い求めを。
ところで、ヌードといえば、またつい最近、芸術か猥褻物か、ということで、ある作家さんの作品が問題になっていますね。
上記に画像を載せた十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)もヌードですが、まったく猥褻感がありません。現在、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんで発刊予定の『乙女の像のものがたり』に寄せた拙稿を校正中です。その中の年少者向けに書いた稿で、「裸婦像」の語注として「人間の肉体の美しさを表現するため、はだかの女の人を作った彫刻」と書きました。「乙女の像」、ひいては芸術表現としての「ヌード」は、そういうものだと思います。
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月17日
昭和24年(1949)の今日、詩人の中原綾子、歌人の館山一子に、それぞれが主宰する雑誌の題字を揮毫したものを送りました。
中原には「すばる」、館山には「郷土」。それぞれ、翌年からの号で、光太郎の揮毫が表紙を飾りました。