1曲目が、「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川」で始まる、光太郎詩「樹下の二人」に故・小山清茂が作曲したものです。
協賛チケットという形で、一口1,000円を振り込むと、こちらが送られてきます。当方、当日のコンサートも拝聴しましたが、CDも欲しかったので申し込みました。復興支援を兼ね、コンサート当日の分と合わせて、収益は市社会福祉協議会に寄付されたそうです。
CDと一緒に入っていた文書から抜粋引用します。
浜根由香~東北を謳う~南相馬コンサートのCDが完成しましたのでお届けします。
皆様のご支援のおかげで10月19日(日)、暖かな日差しとお客様に恵まれて無事にコンサートを終える事が出来ました。
そして協賛チケットの総売り上げは323枚、全国の皆様からのあたたかいご支援の気持を南相馬に届ける事が出来ました。後日、社会福祉協議会から感謝状を戴きました。
御協力いただき本当にありがとうございました。厚く御礼申し上げます。
それから、「南相馬公演を終えて~今、改めて思う事~」という文書も同封されていました。
コンサートの打ち上げで、改めて世話人の方々に震災の話を伺いました。
その方達は避難せずに現地に留まった、正しくは事情があって避難出来なかった方達でした。いち早く避難した友人に「早く逃げろ」と言われても逃げるわけにはいかなかった。
とはいえ、地震直後の混乱の中では避難した方々にも正しい情報が届かないため、避難場所が南相馬よりも放射能の高い場所だったとは知らず、そこで沢の水を飲んだ人も居た…という生々しい話も沢山聞きました。
以前、除染のボランティアで南相馬を訪れた際、「他の場所にはボランティアはたくさん来るけれども放射能が怖いから此所にはあまり来ない。なんでわざわざ南相馬に?」との質問がありました。
「何かせずにはいられなかった。」と率直に気持を伝えましたが、
「なぜ?」の答えになっていないなぁ…と東京に帰ってからも考え続けていました。
「なぜ他ではなく、南相馬だったのか?」
今改めて考えると、原発が危ないものだと薄々知っていたのに声を上げなかった自分が許せなかったのですね。だから「何かせずにはいられなかった。」見えない放射能が残したものを自分の目で確かめなければ。と除染作業に参加したのです。それがきっかけとなり10/19のコンサート、そしてこのCDをお届けする運びとなりました。
今も電力が足りない訳ではないのに各地の原発が次々と再稼働を始めようとしています。今回の事故で明らかになったように人間はまだ原子力を扱いきれません。大都市の電力を賄う為に地方に原発を作るのは自分だけ良ければいいという都会的・身勝手な発想であり、政治的発想です。政治家は政治が仕。音楽家は音楽が仕事ですから、専門外の人の仕事は任せておけと言う風潮もありますが、どんな職業についてもその前に人間です。
人としてやってはいけない事には声を上げなくてはなりません。
音楽家は炭坑のカナリアと似ています。危険に気が付いたら真っ先に声を上げなければいけない、音楽の修行だけやっていればよい訳ではないと思うのです。
そんな思いが大層なチラシを全国に配る原動力となり、本当に多くの方達の後押しで気持ちを形にすることが出来ました。改めて感謝申し上げます。ありがとうございました。
東日本大震災から3年9ヶ月が経ちました。しかし、まだまだ「被災」は終わっていません。浜根さんのように、それぞれの皆さんが、それぞれの立ち位置で、できることをしていっていただきたいものです。
追記 浜根由香さんは、平成28年(2016)6月、胃ガンのため亡くなりました。謹んでお悔やみ申し上げます。
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月12日
大正3年(1914)の今日、雑誌『美術新報』に、散文「バーナード リーチ君に就いて」が掲載されました。