昨日は、東京・護国寺にて開催された第59回高村光太郎研究会に参加して参りました。
 
最近では年に一回行われるもので、毎回、お二方の発表が行われ、昨日は名古屋高村光太郎談話会の大島裕子氏、鶴見大学短期大学部教授・山田吉郎氏のご発表でした。
 
 
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大島氏は「高村光太郎の詩 「N-女史に」の背景」と題してのご発表。
 
「N-女史に」というのは、光太郎智恵子結婚前の明治45年(1912)に書かれた詩で、のち、「人に」と改題され、詩集『智恵子抄』の巻頭を飾ることになる詩です。
 
冒頭部分は以下の通りです。000
 
いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
 
あなたがお嫁にゆくなんて
花よりさきに実(み)のなるやうな
種(たね)よりさきに芽の出るやうな
夏から春のすぐ来るやうな
そんな、そんな理窟に合はない不自然を
どうかしないで居てください
 
従来、この詩の書かれた時期に、智恵子は郷里で縁談がもちあがっており、それに対する抗議として光太郎がこの詩を書いたという解釈が為されていました。
 
しかし、大島氏の調査では、その縁談の相手とされていた人物が、どうもそうではないらしいとのこと。智恵子との結婚話は実際に家同士の口約束的なものがあったらしいのですが、それはもっと前の話だったのではないか、ということです。
 
今後のさらなる精査に期待します。
 
山田氏のご発表は、ご専門でもある短歌について。特に、若山牧水の主宰で始まった雑誌『創作』第1巻第5号(明治43年)に載った自選歌についてでした。
 
 
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当時の歌壇の傾向を踏まえての光太郎の歌風の特徴、歌人達の人間関係等にも触れ、興味深い内容でした。
 
光太郎は元々与謝野夫妻の新詩社に籍を置き、『明星』での活動がその文学的活動の出発点といってよいと思います。しかし、専門の歌人としての道を進まなかったためか、いったいに、光太郎の短歌については、あまり注目されていません。現代においてもあまた刊行されている短歌雑誌で、光太郎の短歌を特集するということが皆無に近い状態です。この点、書道関係の雑誌で光太郎の書がくりかえし特集されているのと好対照です。
 
はっきり言うと、歌壇の閉鎖性がその一因ではないのでしょうか。現代の短歌雑誌で過去の歌人の特集が組まれる場合も、その雑誌のルーツをたどるとその歌人の弟子筋に行き当たり、他の系統の歌人は黙殺、ということが行われているようで、実にくだらないと思います。伝統芸能的な分野になってくると、どうしてもそうなるのでしょうか。
 
そうした垣根を越え、もっともっと光太郎短歌に注目が集まっていいと思います。
 
 
昨日は、会の顧問・北川太一先生もご参加下さり、いろいろと貴重なご意見、新しい情報のご提供を賜りました。
 
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北川先生のお話がじかに聴ける機会は滅多になく、貴重な機会です。しかし参加者があまり多くなく、残念です。この会のさらなる発展も切に望みます。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月23日
 
大正13年(1924)の今日、詩「清廉」を書きました。002
 
それと眼には見えぬ透明な水晶色のかまいたち
そそり立つ岸壁のががんと大きい
山巓の気をひとつ吸ひ込んで
ひゆうとまき起る谷の旋風に乗り
三千里外
都の秋の桜落葉に身をひそめて
からからと鋪道に音(ね)を立て
触ればまつぴるまに人の肌をもぴりりと裂く
ああ、この魔性のもののあまり鋭い魂の
世にも馴れがたいさびしさよ、くるほしさよ、やみがたさよ
 
愛憐の霧を吹きはらひ
情念の微風を断ち割り
裏にぬけ
右に出て
ひるがへりまた決然として疾走する

その行手には人影もない
孤独に酔ひ、孤独に巣くひ001
茯苓(ふくりやう)を噛んで
人間界に唾を吐く
 
ああ御(ぎよ)しがたい清廉の爪は
地平の果から来る戍亥(いぬゐ)の風に研がれ
みずから肉身をやぶり
血をしたたらし
湧きあがる地中の泉を日毎あびて
更に銀いろの雫を光らすのである
あまりにも人情にまみれた時
機会を蹂躙し
好適を弾き
たちまち身を虚空にかくして
世にも馴れがたい透明な水晶色のかまいたちが
身を養ふのは太洋の藍碧(らんぺき)
又一瞬にたちかへる
あの山巓の気
 
 
光太郎には「猛獣篇」という連作詩があります。教科書にも載った有名な「ぼろぼろな駝鳥」もその一篇です。他に
様々な「猛獣」をモチーフに、荒ぶる魂を表出した連作です。
 
光太郎生前に単行詩集としてまとめられる事はなかったのですが、没後、昭和37年(1962)に、草野心平が鉄筆を握り、ガリ版刷りで刊行されました。
 
この「清廉」はその第一作、発表当時「猛獣篇」のサブタイトルが付けられたのは「清廉」が最初です。
 
モチーフは妖怪「かまいたち」。上記画像はWikipediaさんから拝借しました。なにかの弾みに皮膚に裂傷ができる現象を、昔の人はこの妖怪のしわざだと考えていました。Wikipediaさんによれば、科学的には真空の渦がその原因と言われていたものの、ごく最近はどうもそうではないらしいといわれているようで、結局、これだという結論が出ていないようです。やっぱり妖怪の仕業かもしれません(笑)。
 
ちなみに当方、3歳か4歳の時、当時住んでいた東京都の多摩川の堤防でごろごろ転がり落ちて遊んでいたら、右足をかまいたちにやられました。40年以上経った現在でも、傷跡が残っています。本当にすぱっと皮膚が裂け、しかし血は一滴も出ず、それでいて物凄く痛く、泣きながら家まで走った記憶があります。Wikipediaさんでは「痛みはない」と書いてあるのですが……。今もって不思議です。
 
閑話休題。光太郎にとってはこうした妖怪も「猛獣」だったわけですね。「駝鳥」も一般には「猛獣」とは言えません。そう考えると、荒ぶる魂を持つ獣であれば「猛獣」だという理論です。それを言い出すと、「鯰」や「龍」、果てはもはや生物ですらない「潜水艦」まで「猛獣」の範疇に入っています(どの詩を連作詩「猛獣篇」の一篇と判定するかにもよるのですが)。
 
光太郎の内面世界も、なかなか掴みきれません。