このところ、新刊紹介ということで記事を書いています。一昨日は池川玲子『ヌードと愛国』(講談社現代新書)、昨日は清家雪子『月に吠えらんねえ(2)』(講談社アフタヌーンKC)と、講談社さんの書籍が続き、今日も講談社さんのものです。
 
別に当方、講談社さんには何の義理もありませんし(笑)、講談社さんも光太郎に何の義理もないのでしょう。たまたまなのだと思います。  
富岡幸一郎選 高村光太郎他著 2014/11/10 講談社(講談社文芸文庫) 定価1,400円+税
 
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版元サイトより
 
妻に先立たれた夫の日々は、悲しみの海だ。
男性作家の悲しみは、文学となり、その言葉は人生の一場面として心に深く沁み込んでいく。
例えば藤枝静男の「悲しいだけ」のように……。
高村光太郎・有島武郎・葉山嘉樹・横光利一・原民喜・清岡卓行・三浦哲郎・江藤淳など、静謐な文学の極致を九人の作家が描いた、妻への別れの言葉。
 
目次
 元素智恵子  高村光太郎
 裸形  高村光太郎
 智恵子の半生  高村光太郎

 小さき者へ  有島武郎
 出しようのない手紙  葉山嘉樹
 春は馬車に乗って  横光利一
 死のなかの風景  原民喜
 朝の悲しみ  清岡卓行
 にきび  三浦哲郎
 悲しいだけ  藤枝静男
 妻と私  江藤淳

 
というわけで、光太郎の詩が二篇、散文が一篇選ばれています。巻頭に挙げていただいているのがありがたいところです。
 
「元素智恵子」、「裸形」ともに、昭和24年(1949)に作られた六篇から成る連作詩「智恵子抄その後」の中の一篇です。「智恵子の半生」は昭和15年(1940)の雑誌『婦人公論』に「彼女の半生-亡き妻の思ひ出」の題で発表され、翌年刊行された詩集『智恵子抄』に改題のうえ、収められたエッセイです。
 
したがって、目新しいものではないのですが、他の作家がどのように妻の死と向き合っているのか、合わせて読むことでまた違ったとらえ方が出来るのではないかと思います。
 
個人的には江藤淳「妻と私」に感動しました。実はそれ以外の作品は未読です(昔、読んだ作品はありますが)。なかなか重たいテーマの作品集なので、読むのが辛い部分がありまして……。
 
ともかくも、ご紹介しておきます。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月19日
 
大正11年(1922)の今日、田村松魚とともに、光雲の懐古談を聞き始めました。
 
この談話は翌月まで続き、昭和4年(1929)、萬里閣書房から『光雲懐古談』が刊行され、その前半の「昔ばなし」としてまとめられました。筆録は田村です。光雲が語ったのは自己の半生、同時代の美術界の様相などです。
 
『光雲懐古談』に収められた田村の言。
 
此の「光雲翁昔ばなし」は大正十一年十一月十九日(日曜日)の夜から始め出し、爾来毎日曜の夜毎に続き、今日に及んでゐる。先生のお話を聴いてゐるものは高村光太郎氏と私との両人限りで静かな空気をこわすといけない故、絶対に他の人を立ち入らせなかつた。最初の第一回は光太郎氏宅他は今日まで先生のお宅でされつゝある。
 
ただ、以前にも書きましたが、昭和2年(1927)に春陽堂から刊行された『漫談明治初年』という書籍に収められている光雲談話と重なる部分があり、精査が必要です。
 
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