本日も新刊紹介です。 
池川玲子著 2014/10/20 講談社(講談社現代新書) 定価800円+税
 
イメージ 1
 
版元サイトから
 
一九〇〇年代から一九七〇年代に創られた、「日本」をまとった七体のヌードの謎を解く。推理のポイントは時代と作り手の動機。時系列に並べたヌードから浮かび上がってくる歴史とは? ヌードで読み解く近現代史。
 
 歴史とはそもそもミステリーと相性の良いものだと思います(もしくは、ミステリーそのものと言えるかもしれません)が、本書は、「日本」をまとった七体のヌードの謎を解くことで、知られざる近現代史が浮かび上がってくる、いっそう贅沢なミステリー仕立ての歴史読みものとなっています。
 著者の池川玲子さんの専門は、日本近現代女性史。ヌードをめぐる芸術作品、美術史と女性学が交錯することで、いままで気にも留めなかった歴史の一部分がこんなにも面白くクローズアップされるのか、と原稿をいただくたびに実感し、それは嬉しい驚きの連続でした。
 本書は、一九〇〇~一九七〇年代の七体のヌードの謎をめぐる全七章の構成になっていますが、たとえば第二章では、竹久夢二が描いた「夢二式美人」がなぜ脱ぐことになったのか、というミステリーの背景として、第一次世界大戦が挙げられています(それがなぜかはぜひ本書をお読みください)。
 とりわけ、私が思わず、池川さんに、「先生! これ、スクープ・ヌードなんじゃないですか!?」と詰め寄り、鼻息を荒くしてしまったのは、第三章の「そして海女もいなくなった」です(実際に、かつて、池川さんのもとには、某通信社の記者さんから取材の申し込みがあったとか)。本章では、現存する日本映画最古のヌードが発掘されているだけでなく、なんと、それは、真珠湾攻撃のほんの数年前、日本の国際観光局が「日本宣伝映画」をつくるにあたり、よりによってハリウッドからもたらされたシナリオに端を発する、いわくつきのヌードだったという事情も詳しく述べられています(「海女もいなくなった」の意味など、ぜひ本書で)。
 第七章の「七〇年代パルコの『手ブラ』ポスター」では、あまりにも意外な事物のポスターまでもがパルコの「手ブラ」に追従した事実が、図版とともに紹介されており、驚きのあまり苦笑いしてしまうことになるでしょう(それが何のポスターかは、本書でお確かめください)。
 ……と、やはり全七章すべてが極上ミステリーのため、ネタバレを避けて紹介文も思わせぶりな内容とならざるをえません。刊行前に読んだ社内の人間からも大好評の本書、ここはぜひ、ご自分のお手に取ってお楽しみくださいませ。(編集担当:IM)
 
第一章 デッサン館の秘密 智恵子の「リアルすぎるヌード」伝説
第二章 Yの悲劇 「夢二式美人」はなぜ脱いだのか?
第三章 そして海女もいなくなった 日本宣伝映画に仕組まれたヌード
第四章 男には向かない?職業 満洲移民プロパガンダ映画と「乳房」
第五章 ミニスカどころじゃないポリス 占領と婦人警察官のヌード
第六章 智恵子少々 冷戦下の反米民族主義ヌード
第七章 資本の国のアリス 七〇年代パルコの「手ブラ」ポスター
 
こちらでは、著者の池川さんによるこの書籍に関してのエッセイも読めます。
 
タイトルに「愛国」という語が入っていますが、ヘイトスピーチ大好きの幼稚な右翼の常套句、「大東亜戦争は侵略戦争ではなかったのだ」的な馬鹿げた内容ではありません(そういう内容を期待して買わないで下さい)。逆に芸術表現としてのヌードが、しばしば反体制の表象として使われることに注目し、逆説的に「愛国」の語が使われています。
 
 
第一章では、光太郎と邂逅する前の智恵子の、太平洋画会研究所で描いたデッサンをメインに取り上げています。
 
イメージ 2
 
これはおそらく明治40年(1907)、智恵子22歳頃に描かれたものです。智恵子と同じ太平洋画会の事務監督兼助教授だった福岡県大牟田市の佐々貴義雄の遺品から、もう1枚の石膏デッサンとともに、平成11年(1999)に見つかりました。
 
イメージ 3
 
『ヌードと愛国』の第一章では、やはり太平洋画会に通っていた水木伸一の回想にからめ、智恵子を論じています。
 
さらに、当時の黒田清輝の白馬会と、明治美術会の流れをくむ中村不折の太平洋画会との対比……「白馬会-官-新派-外光派-ラファエル・コランの流れ」、「太平洋画会-民-旧派-写実重視-ジャン・ポール・ローランスの流れ」といったところまで考察が進みます。
 
そこに「歴史画」の問題、モデルの問題、そして警察による「風俗取り締まり」による裸体画の「特別室」行きなどといった問題までも盛り込まれ、非常に読みごたえのある章でした。
 
 
さらに第六章「智恵子少々」(もちろん「智恵子抄」のパロディーです)。
 
こちらのメインは昭和40年(1965)の武智鉄次監督の日活映画「黒い雪」。同年、わいせつ図画の公然陳列の容疑で起訴された(判決は無罪)作品です。背景には日米安保体制下のベトナム戦争拡大への危機感、基地問題があります。
 
武智は、昭和32年に観世寿夫と組んで新作能「智恵子抄」を作りました。その際の智恵子のイメージが、この「黒い雪」に投影されていることが、シナリオのト書きから読み取れる、というのです。ただし、それと判らない程度のインスパイアであり、そこで章の題名「智恵子少々」というわけです。
 
この章での論は、その他、光太郎と智恵子の結婚生活や、十和田湖畔の裸婦群像(通称「乙女の像」)、「智恵子抄」受容の歴史などにも及んでいます。
 
感心したのは、昭和32年(1957)の『婦人公論』に載った「座談会三人の智恵子」というかなりマニアックな記事まで参照していること。こちらは武智が司会を務め、それぞれ舞台、映画、テレビドラマで智恵子役を演じた水谷八重子、原節子、新珠三千代が参加した座談会の記録です。
 
イメージ 4
 
 
過日、『日本経済新聞』さんに書評が載りました。
 
長沼智恵子が描いたリアルなデッサン、服を脱いだ竹久夢二の美人画、わいせつ罪に問われた武智鉄二の映画、大胆に露出したパルコのポスター。女性史を専門とする著者が1900年代~70年代に世に現れたヌードを時代状況と照らしながら時系列で読み解く。どんな「裸」も重い日本を背負っているとわかる異色の近現代史論考だ。
 
ぜひお買い求めを。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月17日
 
昭和27年(1952)の今日、新しくオープンした中央公論社画廊で「高村光太郎小品展」が開幕しました。
 
イメージ 5
 
イメージ 6
 
光太郎生前最初の、そして最後の彫刻個展です。
 
大正年代にはアメリカでの個展を構想し、その費用の捻出のため、彫刻頒布会を作った光太郎ですが、その計画はあえなく頓挫。以後、彫刻の個展の構想はありませんでした。
 
この展覧会にしても、光太郎自身はあまり乗り気ではなく、『高村光太郎選集』全六巻を刊行してくれた中央公論社への義理立てのような意味合いが強かったといいます。
 
しかし、さらにこの後の最晩年には、彫刻でなく書の個展を開くことを考えていました。
 
光太郎、つくづく大いなる矛盾を抱えた人物です。