先週金曜日、新宿中村屋サロン美術館の開館記念特別展「中村屋サロン―ここで生まれた、ここから生まれた―」に行って参りました。
新宿駅の東口を出て、すぐ、新装なった新宿中村屋ビルの3階です。
中村屋さんと縁の深かった荻原守衛の関係で、「中村屋サロン」が形成され、光太郎もこの場所に足繁く通っていたと思うと、感慨ひとしおでした。
その守衛や光太郎をはじめ、「中村屋サロン」の芸術家たちの作品が約50点、展示されていました。
光太郎の作品は、事前に展示の目玉の一つとして宣伝されていた油絵の「自画像」、それからブロンズの「手」、さらに同じくブロンズの「裸婦坐像」も並んでいました。
「裸婦坐像」が出ているのは存じませんで、ちょっと驚きました。信州安曇野の碌山美術館さんで持っているもので、昨年亡くなった鋳金の人間国宝にして、光太郎の実弟・豊周の弟子、故・齋藤明氏の鋳造になるものです。したがって、非常に美しく鋳造されています(全国にいくつかあるこの「裸婦坐像」、残念ながらあまりよい鋳造ではないものも展示されています)。
ちなみに碌山美術館さんでは、このほど光太郎の「十和田湖畔の裸婦群像」(通称「乙女の像」)の小型試作を購入されたそうです。同館ではもともと同じ像の中型試作を所蔵されていますが、今度は小型。さらに展示が充実しますね。
閑話休題。出品目録を見ると、他にも碌山美術館さん所蔵のものが全体の3分の1ぐらいを占めており、全面的にご協力なさっているのがよく判りました。
図録にも同館学芸員の武井敏氏の執筆した箇所がありました。
守衛の彫刻は2点。石膏原型が重要文化財に指定されている代表作「女」、そして守衛パリ留学時代の作品「坑夫」。
「坑夫」は、光太郎とも縁の深い作品です。明治40年(1907)、当時ロンドンに居住していた光太郎が、パリの守衛の元に行った際、まだ粘土の状態だったこの「坑夫」を観て感心し、ぜひ石膏に取って日本に持ち帰るよう進言しました。
また、碌山美術館に隣接する穂高東中学校さんの前庭に、この「坑夫」が立っていますが、その題字は昭和30年(1955)に光太郎が揮毫しています。
その他、「中村屋サロン」のメンバーだった柳敬助、中原悌二郎、戸張孤雁、会津八一、中村彝、斎藤与里、中村不折など、光太郎智恵子ともいろいろな縁のある作家の作品がずらり。中村屋さん所蔵のものにも優品が多いなと感じました。
帰りがけに、図録と、グッズを購入しました。
油絵「自画像」のポストカード。
やはり「自画像」、それから「坑夫」も入った4枚組のしおり。
さらにB1階の直営店ボンナさんで、和菓子の「自慢詰合わせ」。
「碌山」というクルミを使ったまんじゅうがありますが、守衛の号の「碌山」から採った名でしょう。当方、子供の頃はそんな事も知らずに食べていました(笑)。
会期は来年2月15日(日)までです。ぜひ足をお運びください。
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月3日
昭和18年(1943)の今日、武蔵書房から年少者のための詩集『をぢさんの詩』を刊行しました。
単行書としては、光太郎唯一のジュブナイルです。初版と重版は武蔵書房、第三版は同じ紙型を使って、太陽出版社に書肆が替わっています。
今日閉幕する「ヨコハマトリエンナーレ2014」で展示されていた『大いなる日に』(昭和17年=1942)、『記録』(同19年=1944)同様、戦時中ということで、ある意味読むに堪えない残念な作品も多い、いわば「負の遺産」です。
この詩集こそが光太郎詩の真骨頂、大和魂の顕現、皇国臣民よ刮目して見よ、とありがたがる愚か者が21世紀の現在でもいまだにいて非常に困るのですが(笑)。
この詩集こそが光太郎詩の真骨頂、大和魂の顕現、皇国臣民よ刮目して見よ、とありがたがる愚か者が21世紀の現在でもいまだにいて非常に困るのですが(笑)。