朗読系の公演情報。アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」などにも出演されていた麦人氏による語りの舞台です。
【じゃがいも村プロデュース公演】麦人じか~ん一人語り『智恵子とゐふ女』
会 場 : スペースじゃがいも村 東京都中野区鷺宮4-1-13 吉田ビルB1
期 日 : 2014年11月1日(土)~9日(日)
時 間 : 11/1~3、11/5、11/8、11/9 16:00から 11/4、11/6、11/7 19:00から 約1時間
出 演 : 麦人
麦人さんサイトから。
高村光太郎の詩集「智恵子抄」は1941年に初出版された。
私は1944年生まれだが、
自分が生まれる三年も前にこの詩集は世に出ていたわけだ。
1941年は第二次世界大戦の中、
日本が米英などの連合国に宣戦布告し、
泥沼の太平洋戦争に突入していった年である。
そんな厳しく混沌とした日本社会の中で、
男女の個人的愛の姿を描いたこのような詩集が出版されたのは、 まことに驚きであり、稀有なことではなかったのか…。
これまでに「智恵子抄」は、
小説・評論、映画・TVドラマ・舞台と、多くの表現分野でとりあげられており、
その捉え方、描かれ方はさまざまである。
光太郎は彫刻家としてもすぐれた作品を多く残しており、
芸術分野で発揮したその才能は並々のものではない。
ゆえにあの当時としては数少ない女流洋画家であった智恵子は、 その自身の芸術への希求を、光太郎との生活のために放棄した犠牲者だと捉える人もいる。
いや、光太郎が純粋に妻へ捧げた
愛の詩だと捉える人もいる。
ま、さまざまな論はさておき、今回私が上演する台本は、
原作の詩を一語一句、
可能な限り間違えぬよう忠実に語りたい。
詩でなく、光太郎が智恵子について記した散文については、
光太郎自身の書いた「智恵子の半生」と、「智恵子の紙絵」から一部抜粋し、
一人語りにするため、私なりの手を入れた。
それでも内容的には
光太郎自身の書いたものにほぼそっている。
ともかくこの舞台で光太郎になりかわり語る私自身は、
「智恵子抄」の詩をメインに、古希を過ぎた今の私が感じるままの、一つの夫婦世界を、
可能な限り私自身の世界として、お客様にとどけられればよいと願っている。
そしてあわよくばお客様それぞれが、
お一人、お一人、独自に歩んでこられた人生と重ね、過去を思い、
未来を思ってくださるような舞台になれば幸いだと思うのである。
私は1944年生まれだが、
自分が生まれる三年も前にこの詩集は世に出ていたわけだ。
1941年は第二次世界大戦の中、
日本が米英などの連合国に宣戦布告し、
泥沼の太平洋戦争に突入していった年である。
そんな厳しく混沌とした日本社会の中で、
男女の個人的愛の姿を描いたこのような詩集が出版されたのは、 まことに驚きであり、稀有なことではなかったのか…。
これまでに「智恵子抄」は、
小説・評論、映画・TVドラマ・舞台と、多くの表現分野でとりあげられており、
その捉え方、描かれ方はさまざまである。
光太郎は彫刻家としてもすぐれた作品を多く残しており、
芸術分野で発揮したその才能は並々のものではない。
ゆえにあの当時としては数少ない女流洋画家であった智恵子は、 その自身の芸術への希求を、光太郎との生活のために放棄した犠牲者だと捉える人もいる。
いや、光太郎が純粋に妻へ捧げた
愛の詩だと捉える人もいる。
ま、さまざまな論はさておき、今回私が上演する台本は、
原作の詩を一語一句、
可能な限り間違えぬよう忠実に語りたい。
詩でなく、光太郎が智恵子について記した散文については、
光太郎自身の書いた「智恵子の半生」と、「智恵子の紙絵」から一部抜粋し、
一人語りにするため、私なりの手を入れた。
それでも内容的には
光太郎自身の書いたものにほぼそっている。
ともかくこの舞台で光太郎になりかわり語る私自身は、
「智恵子抄」の詩をメインに、古希を過ぎた今の私が感じるままの、一つの夫婦世界を、
可能な限り私自身の世界として、お客様にとどけられればよいと願っている。
そしてあわよくばお客様それぞれが、
お一人、お一人、独自に歩んでこられた人生と重ね、過去を思い、
未来を思ってくださるような舞台になれば幸いだと思うのである。
お申し込み、お問い合わせは麦人さんサイトをご参照下さい。
当方、11/5(水)の公演に参上します。
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月29日
昭和22年(1947)の今日、草野心平の詩集『定本蛙』の題字を揮毫しました。
『定本蛙』は翌年11月8日、大地書房から刊行されました。
心平から光太郎に宛てた書簡が残っています。
それからぼくの『定本蛙』が大地書房といふところから出ます。『第百階級』と『蛙』からの抜萃とその後に出来たもののうちから十篇程、のものをひとまとめにしたものですが、またまた表紙の題字をお願ひいたしたいのですが、型は前の蛙のやうな大型のもの、
文面にある通り、光太郎はこれ以前にも心平の詩集や雑誌の題字を揮毫しています。
昭和6年(1931)には雑誌『弩』、同13年(1938)には詩集『蛙』、同18年(1943)には詩集『富士山』。
右は『定本蛙』の扉です。