年2回、当方が刊行している手作りの冊子、『光太郎資料』。その42集が完成しました。以前から寄贈させていただいている団体、個人の皆さんには発送も完了しています。
以前にも解説しましたが、この『光太郎資料』、元々は昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、高村光太郎記念会事務局長の北川太一先生が第36集まで刊行されていたものですが、その名跡をお譲りいただきました。当方が刊行し始めた第37集から数えて6冊目の刊行ということになります。
昨秋、第40集を刊行した際には、岩手の地方紙『岩手日日』さんでご紹介いただきました。
毎回、6本ほどの記事を連載形式で載せています。
「光太郎遺珠」から
高村光太郎研究会から刊行されている雑誌『高村光太郎研究』の連載として、筑摩書房から刊行された増補版『高村光太郎全集』補遺作品を「光太郎遺珠」の題でまとめていますが、そちらは新たに見つかったものをその都度出している形です。そこで、テーマや関連事項ごとに分類、再構築し、画像や関連資料を交え、紹介しているものです。
今回は「造形作家として(四) 岩手にて」と題し、光太郎の彫刻や絵画の造形作家としての側面を表すもののうち、戦中戦後の昭和20年(1945)から同27年(1952)の、岩手での生活の中で書かれたものを紹介しました。
光太郎回想・訪問記 長与善郎「高村光太郎君のこと」/宮芳平「宮芳平自伝(抄)」
大正期の光太郎回想です。
光雲談話筆記集成 浅草の話(下)その1 『漫談 江戸は過ぎる』より
昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 第六回 原釜海岸(福島)
音楽・レコードに見る光太郎 「こどもの報告」(二)
昭和14年(1939)、「文部科学省選定日本国民歌」の一つとして作られた光太郎作詞の歌曲に関しての論考です。
高村光太郎初出索引(六) な行
第五八回連翹忌報告
ほとんど手製のもので、お恥ずかしい限りですが、ご希望の方には送料のみでお分けしています。このブログのコメント欄、またはこちらからご連絡ください(コメント欄には非公開機能もついています)。37集からのバックナンバーも僅かながら残っています。
逆にこちらから勝手に寄贈しているので、送られている団体・個人の方で「こんなものいらん」という方も、同様にご連絡下さい。また、毎回、「転居先不明」などで戻ってくるものがあります。該当の方もご連絡いただければ再送付いたします。
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月16日
明治43年(1910)の今日、画家の津田青楓に絵手紙を書きました。
僕は何にも為ないで暮してゐる。暮せないのに暮してゐる。どうにか暮さうと考へながら暮してゐる。
一遍東京へ出て来ませんか。展覧会もあるから。 光
C'est moi
絵は自画像です。その下の「C'est moi」は仏語で「これは私です」の意。
この前年に欧米留学から帰った光太郎は、ロダンを頂点とする彼地の芸術界の様相と、旧態依然とした日本のそれとの、目もくらむばかりの差異にうちのめされ、日本にも新しい芸術を根付かせようと苦闘していた時期です。