昨日は鎌倉に行って参りました。
 
あじさい寺として有名な明月院さんの近くに、「ギャラリー笛」という不思議なお店があります。カフェ兼ギャラリー、店内でコンサートも行うというところです。
 
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こちらは光太郎の縁戚(妹・静子(しず)のお孫さん)にあたる山端様のお店です。
 
「笛」という店名の通り、店内にはオカリナや各種の笛をはじめ、さまざまな民族楽器なども並んでいます。
 
こちらで現在、「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情」という展示がなされています。
 
 
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お近くに光太郎と親交の深かった詩人の故・尾崎喜八氏、故・伊藤海彦氏が住まわれていて、山端家、尾崎家、伊藤家に伝わる光太郎関連のお宝が展示されています。
 
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彫刻、古写真、光太郎書簡、色紙、関連書籍などなどです。
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彫刻は尾崎喜八の結婚祝いに送られたミケランジェロ模刻の「聖母子像」(大正13年=1924頃)。原型は既に失われ、鋳造もこれ1点しか為されていない、非常に貴重なものです。
 
昨年、千葉市美術館他3館で巡回された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」にもお貸しいただきましたが、その時以来、約1年ぶりに拝見しました。
 
古写真は、すでにいろいろな書籍に掲載されているものの他に、少年時代の光太郎や、戦時中の山端家の結婚式での集合写真など、当方も初めて見るものがあり、驚きました。
 
書簡も、『高村光太郎全集』、さらにその補遺として当方が継続中の「光太郎遺珠」未収録のものが3通もあり、早速コピーを戴いて参りました。来年4月、高村光太郎研究会刊行の雑誌『高村光太郎研究』中の当方の連載「光太郎遺珠」にてご紹介します。
 
さらに驚いたことがもう一つ。
 
昨日、当方はお伺いするとも何とも言わず、突然お邪魔したのですが、たまたま、本当に偶然にも、故・尾崎喜八氏のお嬢さん・榮子様と、故・伊藤海彦氏の奥様もいらしていて、いろいろ貴重なお話が聴けました。
 
榮子様は上記チラシの画像、一番左に写っている女の子です。その隣が光太郎、そして喜八と故・實子夫人。實子夫人は光太郎の親友・水野葉舟の娘で、光太郎が取り持つ縁で結ばれました。したがって、榮子様は水野葉舟のお孫さんにもあたられるわけです。
 
そのあたり、以下の書籍に詳述されています。amazon等で購入可能です。
 
『夏の最後の薔薇 詩人尾崎喜八の妻 實子の生涯』004
2004/2/4 有限会社レイライン刊
重本恵津子著
 
女性の年齢を話題にするのも失礼ですが、榮子様は大正14年(1925)のお生まれ。故・伊藤海彦氏、北川太一先生も同じ年のお生まれです。昨日は、駒込林町のアトリエでの光太郎智恵子に関する思い出をお話ししていただきました。アトリエの2階が智恵子の画室で、智恵子にだっこしてもらい、その窓から駒込林町の風景を見たことなどなど。
 
生前の光太郎をご存知の方は、まだまだ方々にいらっしゃいますが(それでもだいぶ少なくなりましたが)、智恵子の生前を語れる方は、当方、他に存じません。本当に貴重な体験をさせていただきました。
 
さて、「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情」。11月4日(火)までの会期です。月水木はお休み、さらに10月26日(日)と11月1日(土)は臨時休業だそうです。時間は10:00~16:00だそうですが、昨日、当方は16:00過ぎても居座ってしまいました(笑)。
 
その他にも、音楽関連のイベント、講座等も行われています。
 
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ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月12日005
 
昭和27年(1952)の今日、「十和田湖畔の裸婦群像」(通称「乙女の像」)制作のため、7年半ぶりに帰京しました。
 
右は上野駅での一コマ。ホームスパンの猟人服に巨大な長靴(ちなみに光太郎の足のサイズは30㌢ほどあったといわれています)。
 
戦後のまだ傷跡の残る時代でしたが、朝鮮戦争による特需景気で、東京はかなり復興が進んでいました。その東京で、この光太郎の姿は実に異様だったそうです。
 
光太郎、このあとすぐに草野心平らを引き連れて生ビールを堪能、この日は駒込林町の実家に泊まりました。
 
戦前からいたばあやさんがまだ健在で感激したり、翌朝、空襲で焼失したかつてのアトリエ跡を見に行ったりしたと、この夏亡くなった甥の規氏の回想にあります。
 
アトリエ跡を見に行った13日には、中野に今も残る水彩画家、故・中西利雄のアトリエに入り、裸婦像の制作にかかりました。