光太郎の父にして、重要文化財の「老猿」、上野の西郷隆盛像などの作者、高村光雲に関わる報道がありましたので、ご紹介します。 

近代彫刻家、米原雲海の作品一堂に 安来で展示会開幕

 日本を代表する、島根県安来市出身の近代彫刻家、米原雲海(1869~1925年)の作品を一堂に集めた展示会が18日、同市安来町の和鋼博物館で開幕した。日本の木彫に新風を吹き込んだ作家の代表作が、来館者を魅了している。10月20日まで。002

 雲海は1890年、安来を離れて上京し、巨匠高村光雲の門下で、目覚ましい上達を見せた。97年に種痘の創始者ジェンナー像を制作するに当たり、西洋彫刻の技法「比例コンパス」を初めて木彫に用いるなど、日本の木彫界に大きな足跡を残した。

 市内で雲海展が開かれるのは14年ぶり2度目で、10月に合併10周年を迎える市が記念事業として開催。東京芸術大学や県立美術館、長野県、茨城県の個人などから借り、前回の約2倍となる39点の雲海作品をそろえた。

 東京国立博物館の前庭に立つジェンナー銅像の原型となる等身大木像をはじめ、親交のあった日本画家・橋本雅邦の像や、竹取物語の登場人物を表現した「竹取翁」など代表作がずらりと並んでいる。

 雲海展に合わせて市は、同市広瀬町布部の加納美術館で高村光雲や兄弟弟子の作品を展示。同市安来町の観光交流プラザでは地元出身の現代彫刻家の作品展も開いている。いずれも10月20日まで。

(『山陰中央新報』 2014/9/18)
 
過日ご紹介した「新安来市発足10周年記念事業 「米原雲海とその系譜展」に関する地元での報道です。
 
 
もう一つ、別件です。 

日清戦争当時の逸話の証し「活人剣碑」再建へ 袋井・可睡斎

 日清戦争当時の中国全権大使李鴻章と日本陸軍軍医総監の佐藤進のエピソードを基に可睡斎(袋井市久能)に建てられ、現在は台座のみ残っている「活人剣碑」の再建計画が26日、同市役所で発表された。市民団体などでつくる再建委員会が事業主体となって広く資金を募る。碑は東京芸術大学長で文化審議会会長の宮田亮平氏が制作する。来年9月に完成する予定。
 碑の由来は約120年前にさかのぼる。講和条約の交渉時、李は暴漢に狙撃され顔を負傷した。主治医の佐藤の治療によって回復した李は、帯刀姿の佐藤に「医事に剣は不要では」と尋ねた。佐藤は「人をあやめる剣ではなく、生(活)かすための活人剣だ」と即答し、李はいたく感動したという。
 当時の可睡斎の日置黙仙斎主がこの逸話を後世に伝え、日清両国の戦没者の霊を弔おうと碑の建立を発案した。剣の部分は高村光雲が制作し、1898年ごろ、高さ6メートルほどの碑が完成した。ところが、剣は金属製だったため太平洋戦争時に供出された。
 地元有志でつくる「袋井まちそだての会」(遠藤亮平代表)や可睡斎、佐藤が第3代理事長を務めた学校法人順天堂(東京)は地域に眠る遺産に再び光を当てるべく、数年前から再建に向けた協議を進めてきた。遠藤代表(66)は「(碑は)歴史を振り返るよすが。日中友好や平和のシンボルにもなるはず」と期待を込める。
 再建は現存する台座と別の位置を検討する。委員会は約3千万円の資金を募る。一口千円。問い合わせは可睡斎<電0538(42)2121>へ。
(『静岡新聞』 2014/9/27)
 
当方、寡聞にしてこうした碑があったことは存じませんでした。「可睡斎」は、寺院です。「日清両国の戦没者の霊を弔おうと」というのがいいですね。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月27日
 
明治32年(1899)の今日、東京美術学校校友会の補欠委員に推挙されました。
 
翌年には、俳句一句がこの校友会発行の雑誌『東京美術学校校友会雑誌』第2号に掲載されました。現在確認されている最初の活字になった光太郎文筆作品です。