昨日、二本松に行って参りました。目的地は智恵子の母校・二本松市立油井小学校。そちらで『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』を出版された坂本富江さんが、ゲストティーチャーとして授業をなさるということで、おうかがいしました。
 
ほんとうは一昨日に二本松入りし、第6回 智恵子純愛通り記念碑建立祭とプレミアム「音楽で紡ぐ純愛コンサート」を聴いて、さらに昨日の特別授業に行ければよかったのですが、一昨日は夜に自分の音楽活動があり、失礼しました。昨日も夕方から他用があり、とんぼ返りでした。
 
さて、油井小学校。周辺は黄金の稲穂状態でした。その上には智恵子の愛した「ほんとの空」が広がっています。当方自宅兼事務所のある地域も米どころですが、ほとんどが早場米なので、8月末には刈り入れがなされており、福島ではまだ稲刈りしてないんだ、と新鮮でした。
 
イメージ 1
 
イメージ 4
 
 イメージ 2  イメージ 3
 
 敷地内には、智恵子が通っていた明治中頃からある木が三本あり、油井小学校のシンボルとなっています。ちなみに同校は明治6年(1873)の開校ですから、創立141年という、伝統ある学校です。
 
右上の画像がポプラの木。これがとにかく大きくて、一番目立ちます。一番上の画像で、田んぼの向こうに聳(そび)えているのもこれです。根本はこんな感じです。
 
イメージ 5
 
それから、やはり明治からあるしだれ桜。咲いたら凄いのでしょうね。
  
イメージ 6
 
9時半頃、小学校に着き、校長室へ。坂本さんはすでにいらしていました。地元で顕彰活動をなさっている「智恵子のまち夢くらぶ」さんの熊谷代表もいらっしゃいました。さらに高村光太郎研究会員の西浦基氏が、はるばる大阪から。西浦氏は一昨日の建立祭プレミアム音楽祭をお聴きになったそうです。
 
イメージ 7
 
地元紙『福島民報』さんの取材を受ける坂本さん、伊藤校長先生。
 
イメージ 8
 
今回の特別授業は、坂本さんが記念講演をなさった昨年の智恵子命日の集い「レモン忌」で、伊藤校長先生が坂本さんの講演を聴かれ、「ぜひ子供たちの前でも」とお願いし、実現したそうです。
 
同校では著名な卒業生ということで、総合的な学習の時間を使い、智恵子に関する調べ学習などを行っています。職員室前の廊下には「智恵子コーナー」が。
  
イメージ 9
 
さて、特別授業。会場は音楽室、対象は4年生の児童、2クラスで40名あまり、3、4時間目、45分×2の枠です。
 
イメージ 10
 
3時間目はパソコンとプロジェクタを使い、坂本さんが巡った全国の智恵子ゆかりの地の写真をスクリーンに投影しての説明。画像は昨年2月に坂本さんが板橋の赤塚図書館で講演なさったときにも使ったもの。上は授業の初めに坂本さんをご紹介なさる伊藤校長先生です。当方、パソコンのマウスをクリックする大役を仰せつかりました(笑)。
 
4時間目は、坂本さん手作りの、智恵子の生涯を描いた紙芝居。坂本さんは明治期に智恵子も所属した太平洋画会(現・一般社団法人太平洋美術会)の会員で、同会の展覧会では福島の風景などを描いた絵を出品なさっています。下記は昨年の出品作「智恵子抄の里(二本松市)」。100号の大作です。絵心があるというのは得ですね。
  
イメージ 11
 
 
 
イメージ 12
 
 イメージ 13  イメージ 14
  
坂本さん、紙芝居を読みながら、智恵子逝去のくだりでは感極まって落涙。子供たちも食い入るように引き込まれていました。
 
読み終わった紙芝居、坂本さんから学校に贈呈されました。気前がいいですね(笑)。活用していただきたいものです。
 
若い世代に光太郎智恵子の功績を伝えて行くためには、やはり学校教育の現場で取り上げていただくことが不可欠です。幸い、光太郎の詩などは小中高と、教科書に掲載されています(先月、『朝日新聞』さんの土曜版に載った「教科書に載っていた好きな詩」ランキングでは、光太郎の「道程」と「あどけない話」がランクインしました)。いろいろな部分で時代を先取りし、しかし芸術創作と実生活との狭間で悩み苦しんだ智恵子の生涯も、実に多くの示唆に富むものです。
 
基本的には、それぞれの地元の偉人(とは限りませんが)の顕彰活動が重要です。その中から、全国区になってゆくということで、地元はもちろん、全国の学校で智恵子も取り上げていただきたいものです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月23日
 
明治12年(1879)の今日、光雲の師匠、高村東雲が歿しました。
 
東雲は元々「奥村」姓。幕末に独立する際、師匠の高橋鳳雲から「雲」の字と、さらに「高橋」姓の「高」の字を貰い、「高村」姓を創出しました。
 
光雲は元々「中島」姓。明治7年(1874)に独立しましたが、同じ年、徴兵忌避のため、子供のいなかった師匠の姉・悦の養子となり、高村姓となりました。明治初年の徴兵制では長男は対象外でしたが、光雲には大工をやっていた異母兄がいたため、そのままでは徴兵にかかるおそれがあったのです。