元女優・参議院議員の山口淑子さんの訃報が出ました。 

山口淑子さん死去 女優「李香蘭」、参院議員として活躍

『朝日新聞』 2014/09/14
 
 戦時中は女優・李香蘭として日中両国の歴史に翻弄(ほんろう)され、戦後はワイドショーの司会や参議院議員としても活躍した山口淑子(やまぐち・よしこ、本名大鷹淑子〈おおたか・よしこ〉)さんが7日、心不全で死去した。94歳だった。葬儀は近親者で営んだ。
 
 1920年、旧満州生まれ。13歳の時、奉天放送局にスカウトされ、歌手デビューした。日本人だったが、中国語が堪能で、中国人に受け入れられやすいように「李香蘭」という芸名が付けられた。
 38年、国策会社の満州映画協会(満映)の専属になる。「親日的な中国人女優」として、日本の植民地経営のスローガンだった「日満親善」「五族協和」を体現するヒロインを次々演じた。とりわけ長谷川一夫と共演したラブロマンス「白蘭(びゃくらん)の歌」「支那の夜」「熱砂の誓ひ」は大陸3部作として大ヒットした。
 一方で歌手としても人気を集めた。41年に東京・有楽町の日劇で開かれたコンサートでは観客の行列が建物を何重にも取り巻き、警官隊が出る騒ぎに。「夜来香」「蘇州夜曲」などのヒット曲が生まれた。
 その間、一貫して日本人であることを明かさなかったため、終戦時には、日本に協力した中国人として処罰されそうになった。裁判で日本人であることを証明して謝罪。46年、日本への帰国が許された。
 戦後は山口淑子として日本映画に登場。50年、谷口千吉監督「暁の脱走」や黒澤明監督「醜聞〈スキャンダル〉」などに出た。ハリウッドにも進出し、「東は東」や「東京暗黒街・竹の家」などにシャーリー・ヤマグチ名で出演した。
 51年、彫刻家イサム・ノグチさんと結婚したが、4年あまりで離婚。ブロードウェーのミュージカル出演中に知り合った外交官の大鷹弘さんと58年に再婚、一度は芸能界から引退した。
 69年にテレビのワイドショー「3時のあなた」の司会者として本格的に復帰。中東やベトナムなどの紛争地域に出向き、パレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長や日本赤軍の重信房子最高幹部らを精力的に取材した。
 その後、政治家に転身。74年の参院選全国区に自民党から立候補し当選した。環境政務次官、参議院外務委員長などを歴任した。
 

右は昭和26年(1951)の雑誌『毎000日グラフ』の表紙を飾った山口さんです。 
 
光太郎と山口さん、直接の面識はなかったようですが、筑摩書房刊行の『高村光太郎全集』に、山口さんの名が2回出てきます。
 
まずは昭和27年(1952)10月に美術雑誌記者の国安芳雄と行った対談「心境を語る」。当時の山口さんの夫で、彫刻家のイサム・ノグチの話が出た流れで、次のような部分があります。
 
高村  日本タイムスを今までとつていたのだけれど、あれに出ていた野口さんの展覧会の写真はとても面白いものをとつていたのです。「独り者」という焼物ですが、ペチヤンコのせんべいぶとんからフーッというような顔を出して、その書いてある評が面白い。世界中で一番あわれな顔をしていると書いてある。なるほどそういう顔だつた。大いに山口淑子と結婚しない前の自分を思い出して書いたのでしょう。
国安  山口淑子の顔を何かで先生がほめていましたね。
高村  あれはぼくはいいと思うのですよ。だから彫刻家の野口さんが結婚したのはもつともだと思う。あれは彫刻的な顔ですもの。あれは辰野隆博士のところに、女優の連中が五、六人集つて何だかの話をさせられたのでしよう。その時の写真が出て、辰野さんをまん中に女優の首が五つばかり並んでいる。それをずつと見て来たら、一人非常に違うのがいる。それはまるで彫刻にしたらいい顔だ。名前を見たら山口淑子となつている。それであれは草野(心平)くんが山へ来たときだが、その話をしたのです。そうすると草野くんが、本気なら連れて来るかとか何とかいつていた。連れて来られては大へんだから、今ここではできないから、ただそういつたのですが、それを芸術新潮の人が聞いて、ぼくに「彫刻家が見た山口淑子」という感想を書いてくれというのです。それでまた考えちやつたのですが、ニユーヨークだの方々でとつた写真を一たば送つて来た。それがあまりよく写つているので、初めの新聞で見たのと違う感じを受けた。新聞ではこまかいところが写つていない。ぼうつとしているのがとてもいい顔だつた。あまりこまかに写つているのを見ると何も書けなかつた。けれどもあれはプラスチツクな顔ですよ。
 
「芸術新潮」の人というのは、詩人の藤島宇内のようです。昭和23年(1948)11月に藤島に宛てたはがきに、「彫刻家が見た山口淑子」という感想」についての件が記されています。
 
おてがみと写真などいただきました、御申越の原稿は暇があれば書かうと思ひますが今月中はとてもダメなのでもつとあとになるでせう。「彫刻になる顔」とでもするか、「山口淑子の首」とでも題しませうか。
 
このはがきの前に、山口淑子の顔の感想を書くことについて、「涼しくなつたら或は試みるかもしれません」と書いた書簡も藤島に送られているのですが、そちらは残念ながら失われています。
 
で、結局は「あまりこまかに写つているのを見ると何も書けなかつた。」ということで、これは幻のエッセイになってしまったわけです。
 
しかし、先の対談で、国安が「山口淑子の顔を何かで先生がほめていましたね。」と発言しています。これが草野や藤島あたりからの伝聞なのか、それとも何かで読んだのか、そのあたりがはっきりしません。可能性があるのは、昭和25年(1950)7月の『新潮』に載った草野心平の「高村光太郎」という長い山小屋訪問記です。
 
 高村さんはたって、ラジオのスイッチをひねった。(略)女のひとたちの座談会だった。その女の声で想い出したのか、
「山口淑子ね。矢張りあんな顔してんのかしら。ほんものが写真のようだったら、あの顔、つくりたいな。」
 忘れていたが、いつか高村さんが手紙できいてきたことがあった。或る婦人雑誌での座談会で私が辰野隆さんや山口淑子といっしょだったことから、その記事を見た高村さんが、本ものが写真のようであるかどうかをきいてきたのだった。
 
先の対談の内容とも一致します。
 
さらに、藤島がその晩年に書いた回想にも山口さんに関する話が出て来ます。平成7年(1995)新潮社の「とんぼの本」の一冊として刊行された『光太郎と智恵子』所収の「十和田湖の裸像」です。
 
高村さんはしばしば私に「こさえてみたい彫刻」のプランを話していた。テーマは三つあって、マッカーサー、山口淑子、智恵子だった。占領軍司令官マッカーサーは顔が彫刻向きだし、高村さんの好きなミケランジェロがローマ法王の依頼によってつくったその像は似ていないと非難されたが、すぐれた彫刻の永遠性によって実物を克服したことがヒントになっていた。山口淑子さんの場合は顔が彫刻向きであるほかに、日本と中国の戦争のはざまを生きぬいてきたその半生の苦難に高村さんは心を惹かれていた。
 
昭和27年(1952)に十和田湖畔の裸婦像制作のため上京する前の話、先のはがきの頃なのでしょう。しかし、文筆での山口さんに関するエッセイ同様、彫刻の山口さんの像も実現しませんでした。
 
 
山口さんと光太郎の関わりはもう1点あります。
 
光太郎が十和田湖畔の裸婦群像制作のため上京し、借りたのが、中野に今も残る新制作派の水彩画家、故・中西利雄のアトリエでした。中西は昭和23年(1948)に歿していますが、そのアトリエを、光太郎が借りる以前にイサム・ノグチも借りていた時期がありました。それが山口さんと結婚した昭和26年(1951)頃だったとのことで、山口さんもこのアトリエに足を踏み入れています。先の藤島宇内の「十和田湖の裸像」には以下の記述が。
 
青森県側は、八甲田山中の蔦温泉にアトリエを建てたら、といったが、これは論外。東京にアトリエを見つけることで合意した。帰京すると早速、私は菊池(一雄)さんに相談してアトリエを探した。菊池さんは、東京中野区に、亡くなった水彩画家中西利雄さんのアトリエがあるという。しばらく前、イサム野口(アメリカの彫刻家)・山口淑子夫妻が借りていたが、いまは空いているとのことだ。私が菊池さんの紹介で訪ねると、中西未亡人はよろこんで承諾してくれた。
 
ノグチはその後、鎌倉の北大路魯山人のもとに移り、陶芸を学んでいます。光太郎と国安芳雄の対談にある「「独り者」という焼物」はこの時期のものでしょう。
 
 
さらにもう一点。
 
冒頭の訃報で「終戦時には、日本に協力した中国人として処罰されそうになった。裁判で日本人であることを証明して謝罪。46年、日本への帰国が許された。」とありますが、この時に便宜を図ったのが、中国国民党の将校だった黄瀛。中国人の父と日本人の母を持ち、光太郎や心平、宮澤賢治と親しかった詩人でもありました。
 
孫引きで申し訳ありませんが、平成6年(1994)、日本地域社会研究所刊行、佐藤竜一著『黄瀛―その詩と数奇な生涯―』に引用された、矢野賢太郎「黄瀛先輩との交流」から。
 
 或る日黄君のところに川喜多(長政)氏と李香蘭が訪ねてきて同席しましたが、李香蘭は中国人で漢奸だと云うことでどうしても日僑管理処から帰国許可が出ず困っていたのを日本人であることを黄君が証明したのでやっと帰れるようになったそのお礼を申述べに来たのです。
 それでは一曲所望したい、あなたの一番思い出の深いのをと云う黄君の求めに応じて、彼女は夜来香を歌ってくれました。
 
ほんとうに人と人との縁というものは、不思議なものです。
 
申し遅れましたが、山口さんのご冥福をお祈り申し上げます。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月17日
 
昭和8年(1933)の今日、上野松坂屋で、光雲作の、朝鮮の京畿道京城府に建立された博文寺本尊釈迦如来像の開眼供養が行われました。
 
博文寺はこの前年に建立された、初代韓国統監・伊藤博文を祀る寺院です。
 
当方、この開眼供養の時の写真と、それを報じるリーフレットを持っています。翌年には歿する光雲の最晩年の写真です。
 
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◎博文寺本尊佛開眼式
日鮮融和の大道場として故伊藤博文公に縁故ある官民有志の発起で、昨年十月に京城に落成を見た曹洞宗春畝山博文寺に納められる本尊佛は、過般来斯界の権威高村光雲翁が製作中であつたが、此程漸く等身大に及ぶ釈迦如来像を完成、十七日午前十時より伊藤公記念会主催で上野松坂屋で開眼供養を行つた。
写真は、完成した如来像と参列の高村光雲、今井田朝鮮政務総監、児玉秀雄伯