『朝日新聞』さんでいえば、「天声人語」にあたる、新聞の一面コラム。このほど地方紙2紙で相次いで光太郎智恵子を取り上げて下さいました。 

神戸新聞 正平調 2014/09/09

高村光太郎の詩「秋の祈(いのり)」で、「喨々」という言葉に出合う。漢和辞典を引くと「りょうりょう」と読み仮名が記されていた◆音が明るく響き渡るさまをいう。詩人は詩の書きだしと終わりで、この言葉を繰り返す。「秋は喨々と空に鳴り」。明るく澄み切った秋空の様子を歌っているのだろう◆秋の青空を見上げながら、そういえばあの時も青かったと思い出す空がある。決して明るい思い出ではない。12年前の9月、当時の小泉首相を乗せた政府専用機が平壌(ピョンヤン)の空港に降り立った。見守ったテレビに映る平壌の空は真っ青だった◆前後して神戸出身の拉致被害者、有本恵子さんの両親に何度か話をうかがう機会があった。神戸の街頭で支援を訴える活動の合間のことだ。いろんな情報や政治の動きが飛び交う中、こう言っていた。「楽観はしておりません。しかし何があろうと、絶対に悲観致しません」◆先日、有本さんの父明弘さんの講演を伝える記事で、「恵子を取り戻せる最後のチャンス」の言葉を読んだ。同じ日、横田めぐみさんの両親は神奈川で「願って待つしかない。本当にしんどい時期」と語った◆この秋、日朝交渉が大きな局面を迎える。被害者と家族は想像を絶する苦しみの日々を耐え忍んできた。今はただ、それぞれの再会の訪れを秋の祈りとしたい。2014・9・9
 
引用されている「秋の祈」は大正3年(1914)、ちょうど100年前の作です。詩集『道程』の最後に収められた詩で、おそらく『道程』のために書き下ろされたものと推定されています。
 
  秋の祈000
 
秋は喨喨(りやうりやう)と空に鳴り
空は水色、鳥が飛び
魂いななき
清浄の水こころに流れ
こころ眼をあけ
童子となる

多端粉雑の過去は眼の前に横はり
血脈をわれに送る
秋の日を浴びてわれは静かにありとある此を見る
地中の営みをみづから祝福し
わが一生の道程を胸せまつて思ひながめ
奮然としていのる
いのる言葉を知らず
涙いでて
光にうたれ
木の葉の散りしくを見
獣(けだもの)の嘻嘻として奔(はし)るを見
飛ぶ雲と風に吹かれるを庭前の草とを見
かくの如き因果歴歴の律を見て
こころは強い恩愛を感じ
又止みがたい責(せめ)を思ひ
堪へがたく
よろこびとさびしさとおそろしさとに跪(ひざまづ)く
いのる言葉を知らず
ただわれは空を仰いでいのる
空は水色
秋は喨喨と空に鳴る
 
「喨喨」。「デジタル大辞泉」によれば、「音の明るく澄んで鳴り響くさま」。いかにも「秋」というイメージの言葉ですね。画像は以前も使いましたが、二本松の智恵子の生家です。
 
しかし昨日あたりから秋晴れとはほど遠い全国的な豪雨。広島の土砂災害も記憶に新しいところですが、命を落とす方の出ないように祈るばかりです。 

福島民報 あぶくま抄 2014/09/08

〈くもとあそひ風とうたへる春秋の世の塵[ちり]しらぬやまの湯の宿〉。歌人柳原白蓮[びゃくれん]の直筆の短歌は、二本松市岳温泉の「陽日の郷あづま館」に残る。NHK朝の連続テレビ小説「花子とアン」で主人公の親友である葉山蓮子のモデルだ。太平洋戦争で最愛の長男を亡くす。終戦直後、半生を描いた映画「麗人」が反響を呼び、かつて絶縁状を出した炭鉱王は死去する。昭和27(1952)年秋、66歳の歌人は「やまの湯」で「世の塵」を落とす。翌年に世界連邦平和運動の婦人部長となる。文豪・幸田露伴も二本松と縁が深い。明治20(1887)年、20歳で文学を志し北海道から徒歩で上京する。苦難の旅は著書「突貫紀行」に記される。9月28日、二本松の亀谷坂で決意を新たにする。住民が運営する、にぎわいの拠点「亀谷坂露伴亭」は5周年を迎えた。露伴が訪れた記念日も営業する。11月に5周年事業を計画する。詩集「智恵子抄[ちえこしょう]」で知られる二本松市出身の高村智恵子をしのぶ「レモン忌」は10月5日の命日に行われる。12月に夫・光太郎と結婚して100年を迎える。二本松に秋の風が吹く。文学史を彩る3人の人生が重なる。
 
当方、寡聞にして柳原白蓮や幸田露伴が二本松にゆかりがあることは存じませんでした。
 
智恵子の命日「レモン忌」のつどいは、書かれている通り、10月5日に二本松市の智恵子生家に近い「ラポートあだちで行われます。今回で第20回となり、毎年、この時期の日曜日に行っているのですが、今年はちょうど智恵子の命日「レモンの日」と重なります。
 
当方、記念講演を依頼されており、「智恵子、新たなる横顔」という題でお話しさせていただきます。ただ、詳しい案内文書等、こちらにも届いておりませんので、詳細はまた追ってご紹介いたします。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月11日
 
昭和17年(1942)の今日、洛陽書院から詞華集『日本詩集』が刊行されました。
 
当代一流の詩人達による戦争協力詩を集めたアンソロジーです。同種のものには、この時期、おびただしく出版されました。そのうち大政翼賛会文化部編 『軍神につづけ』、日本文学報国会編 『辻詩集』(ともに昭和18年=1943)が、現在開催中の「ヨコハマトリエンナーレ 2014 大谷芳久コレクション」で展示されています。同展では光太郎個人の詩集『大いなる日に』(昭和17年=1942)、『記録』(同19年=1944)も並んでいます。
 
イメージ 2
 
『日本詩集』での光太郎作品は、随筆「詩005精神」、詩が9篇掲載されています。「必死の時」「危急の日に」「独居自炊」「正直一途なお正月」「事変二周年」「最低にして最高の道」「彼等を撃つ」「新しき日に」「夜を寝ざりし暁に書く」です。
 
光太郎作品を収めたこの種のアンソロジーの類は、少なく見積もっても40種類ほど刊行されています。当方手元にも30数冊あります。一部、画像を載せます。
 
戦後、昭和22年(1947)になって、蒋介石に対して書かれた、「蒋先生に慙謝す」という詩の中で、こうした自身の戦時中の行動について、光太郎はこのように述べています。
 
  蒋先生に慙謝す
 
わたくしは曾て先生に一詩を献じた。
真珠湾の日から程ないころ、無題1
平和をはやく取りもどす為には
先生のねばり強い抗日思想が
巌のやうに道をふさいでゐたからだ。
愚かなわたくしは気づかなかつた。004
先生の抗日思想の源が
日本の侵略そのものにあるといふことに。
気づかなかつたともいへないが、
国内に満ちる驕慢の気に
わたくしまでもが眼を掩はれ、
満州国の傀儡をいつしらず
心に狎れて是認してゐた。
人口上の自然現象と見るやうな
勝手な見方に麻痺してゐた。
 
天皇の名に於いて
強引に軍が始めた東亜経営の夢は
つひに多くの自他国民の血を犠牲にし、
あらゆる文化をふみにじり、
さうしてまことに当然ながら
国力つきて破れ果てた。
侵略軍はみじめに引揚げ、無題
国内は人心すさんで倫理を失ひ、
民族の野蛮性を世界の前にさらけ出した。
先生の国の内ではたらいた
わが同胞の暴虐むざんな行動を
仔細に知つて驚きあきれ、006
わたくしは言葉もないほど慙ぢおそれた。
日本降伏のあした、
天下に暴を戒められた先生に
面の向けやうもないのである。
 
わたくしの暗愚は測り知られず、
せまい国内の伝統の力に
盲目の信をかけるのみか、
ただ小児のやうに一を守つて、
真理を索める人類の深い悩みを顧みず、
世界に渦巻く思想の轟音にも耳を蒙(つつ)んだ。
真理の究極を押へてゆるがぬ
先生の根づよい自信を洞察せず、
言をほしいままにして詩を献じた。
今わたくしはさういふ自分に自分で愕く。
けちな善意は大局に及ばず、
せまい直言は喜劇に類した。
わたくしは唯心を傾けて先生に慙謝し、無題2
自分の醜を天日の下に曝すほかない。
 
 
戦後になってこういう詩を書いている光太郎を、ヘイトスピーチ大好きなネトウヨがちやほやしている理由がよく判りません。彼等にしてみれば「変節の裏切り者」「売国奴」そのもののような気がするのですが……。
 
あの輩は、戦時中の戦争協力詩だけが光太郎詩の本質だと思っているのかも知れませんね。困ったものです。