男性雑誌『BRUTUS』の、最新号ではなく、一つ前の号です。
2014/08/16 特別定価680円
メインは雑誌『暮らしの手帖』編集長で、エッセイストとしても活躍されている松浦弥太郎さんによる、「男の一流品」の紹介です。
ちなみに「一流品」の定義は以下の通り。
なるほど、ですね。
で、実に雑多なものがいろいろと紹介されています、衣服、雑貨、クラシックカー、書籍、家具、スポーツ用品、食品、アナログレコード……。
その中の一つがこちら。光太郎揮毫の色紙です。
「詩とは不可避なり」と読みます。戦後、花巻郊外太田村の山小屋時代に書かれたものと推定されます。
実にのびのびと書かれていますが、余白の使い方など、真似の出来るものではありませんね。「不可避」という熟語の途中で改行してしまうあたりも味噌です。これを「詩とは/不可避なり」と二行にしてしまったり、「詩とは/不可避/なり」と改行したりしては、この絶妙なバランスは生まれないように思います。
この色紙、松浦さんの所有ではなく、東京本郷の古書店・森井書店さんで扱っている商品です。
9月に入ってから、森井書展さんのサイトを見てみたところ、トップページにこの色紙が『BRUTUS』で紹介された旨の記述があり、あわててバックナンバーを版元から取り寄せた次第です。店頭に並んでいるうちにご紹介できればよかったのですが、申し訳ありません。
さて、もう一つ、「一流品」として、4ページにわたって、盛岡の「ホームスパン」が取り上げられています。
「ホームスパン」とは、明治時代に日本に入ってきた、羊毛を使った織物。コートやジャケットなどの生地として、主に東北や北海道などの寒冷地で作られるようになりました。志賀直哉、武者小路実篤、濱田庄司などの白樺派の面々がこよなく愛したそうです。また、松浦さんはかつて文京区にあった立原道造記念館でホームスパンを見て、ずっと憧れていたとのこと。
松浦さんが訪ねたのは、盛岡の蟻川工房さん。この記事では紹介されていませんが、光太郎と深い関わりがあります。
こちらは岩手のホームスパン普及に貢献した及川全三の流れをくむ工房です。現在、工房を切り盛りされている蟻川喜久子さんの亡くなった御主人は、及川の愛弟子・福田ハレ子の子息。光太郎は、花巻郊外太田村で暮らしていた頃、及川や福田にホームスパンの服をよく作ってもらっていました。及川の弟子の一人に、太田村出身の戸来幸子という人もいて、この人を介することが多かったようです。また、昭和27年(1952)に、十和田湖畔の裸婦群像制作のため、岩手を後にしてからも、ホームスパンの服を愛用し続けていました。
今年2月から6月にかけて、盛岡てがみ館さんで開催された第43回企画展「高村光太郎と岩手の人」では、福田と戸来にあてた新発見の書簡も展示されました。やはりホームスパンや及川に関する記述がありました。
さて、『BRUTUS』 №784 。もう店頭には並んでいませんが、版元のマガジンハウスさんのサイトから注文できます。ぜひお買い求めを。
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月5日
明治10年(1877)の今日、光太郎の姉・さく が誕生しました。
光雲・わか夫妻の初めての子供です。長じて狩野派の日本画を学び、将来を嘱望される腕前を身につけつつありましたが、明治25年(1892)、数え16歳で早世してしまいました。
右上は、さくの描いた光太郎八歳の姿です。
光太郎はこの6歳上の姉を、非常に誇りに思っていたそうです。