去る8月9日、宮城県は女川町で、第23回女川光太郎祭が開催されました。
いくつかのメディアで報道されていますので、ご紹介します。
女川・仮設商店街で「光太郎祭」 町の“文化遺産”しのぶ
女川町を訪れ、詩や紀行文を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第23回光太郎祭(女川・光太郎の会主催)が9日、同町浦宿浜の仮設商店街「きぼうのかね商店街」で開かれた。
高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営員会の小山弘明代表が連作詩「暗愚小伝」を題材に、生い立ちや家庭環境などを解説した。
光太郎の会の須田勘太郎会長は「光太郎の詩文は町の文化遺産。当時の女川をしのびながら詩を詠んでほしい」とあいさつ。遺影に献花した後、地元の小学生らが女川を題材にした「よしきり鮫」などの詩を朗読した。
文芸評論家で高村光太郎記念会の北川太一事務局長の講演、歌やギター演奏の披露もあった。
祭りは、光太郎が三陸の旅に出発した1931年8月9日にちなみ、92年から毎年開催。91年に女川港に建てられた三つの文学碑は東日本大震災で二つが倒壊し、一つは行方不明になっている。
高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営員会の小山弘明代表が連作詩「暗愚小伝」を題材に、生い立ちや家庭環境などを解説した。
光太郎の会の須田勘太郎会長は「光太郎の詩文は町の文化遺産。当時の女川をしのびながら詩を詠んでほしい」とあいさつ。遺影に献花した後、地元の小学生らが女川を題材にした「よしきり鮫」などの詩を朗読した。
文芸評論家で高村光太郎記念会の北川太一事務局長の講演、歌やギター演奏の披露もあった。
祭りは、光太郎が三陸の旅に出発した1931年8月9日にちなみ、92年から毎年開催。91年に女川港に建てられた三つの文学碑は東日本大震災で二つが倒壊し、一つは行方不明になっている。
『石巻かほく』2014.08.15
光太郎の詩の世界に浸る 第23 回「女川・光太郎祭」
彫刻家・詩人として知られる高村光太郎が、時事新報の委嘱で三陸地方へと旅立った8 月9 日、きぼうのかね商店街で第23回「女川・光太郎祭」が開催されました。
この旅行中に光太郎は女川へも立ち寄り、「三陸沿岸では一番新しい、一番きれいな水揚げ場だ。(中略)女川は極めて小さな、まだ寂しい港町だが、新興の気力が海岸には満ちている。」と評しています。
この日はあいにくの雨模様でしたが、しっとりとしたギターの音色をバックに詩が朗読され、参加者は光太郎の目にした女川を想い、詩が描きだす独特の世界に浸りました。
この旅行中に光太郎は女川へも立ち寄り、「三陸沿岸では一番新しい、一番きれいな水揚げ場だ。(中略)女川は極めて小さな、まだ寂しい港町だが、新興の気力が海岸には満ちている。」と評しています。
この日はあいにくの雨模様でしたが、しっとりとしたギターの音色をバックに詩が朗読され、参加者は光太郎の目にした女川を想い、詩が描きだす独特の世界に浸りました。
『広報おながわ』 2014.09.01
女川「光太郎祭」で講演
女川町でこのほど、詩人・高村光太郎の顕彰式典「光太郎祭」が開かれた。83年前に詩人が三陸へ向けて東京を出発したこの日に式典を開催して今年で23回目。連作詩「暗愚小伝」について講演があり、戦争協力に及んだ詩人の軌跡に約50人が耳を傾けた。
式典は、仮設商店街にテントを張って開かれた。文学碑3基の大きな写真が囲むステージで、研究者の小山弘明さん(49)が「暗愚小伝」を読み解く。
小学校時代をこう描く。「身を捧げるといふことの どんなに貴いことであるかを、先生はそのあとでこんこんと説いた。みんな胸をふくらませてそれをきいた」。小山さんは「このような教えが『三つ子の魂百まで』と言うように、戦争協力につながっていったのではないか」と解説した。
光太郎研究の大家、北川太一さん(89)も式典に出席して、「戦争中の自分を『暗愚』と名付けたことは大事」と指摘した。「今また戦争に巻き込まれるかもしれない雰囲気が漂っている」と現代に重ねた。
光太郎は1931年8月9日、三陸へ向けて東京を出発し、女川港で作品を残した。町で養鶏業を営んでいた画家の貝廣(かい・ひろし)さんがそれを知り、有志と共に町内外の3721人から寄付金を集め、91年に女川港のそばに文学碑を建てた。
その後、毎年8月9日に碑の前で顕彰式典を開いている。公費に頼らない手弁当の式だ。貝さんは東日本大震災の津波で命を落とした。64歳だった。貝さんの妻や友人は遺志を継ぎ、中断させずに震災の年も式を開催した。津波で被災した碑は今、再建の日を待っている。
毎回、町の人々が詩の朗読も行う。今回は高校生らと一緒に女川小学校6年生も参加。「道程」を千葉あいかさん(11)、「花のひらくやうに」を鈴木明梨さん(11)、「山のともだち」を成田千夏さん(12)が読み上げた。「みんなが真剣に聞いてくれたので良かったです」と鈴木さん。
ギター奏者の宮川菊佳さんやオペラ歌手の本宮寛子さんも出演。本宮さんは強い風雨の音をかきけすようにソプラノを響かせた。
式典は、仮設商店街にテントを張って開かれた。文学碑3基の大きな写真が囲むステージで、研究者の小山弘明さん(49)が「暗愚小伝」を読み解く。
小学校時代をこう描く。「身を捧げるといふことの どんなに貴いことであるかを、先生はそのあとでこんこんと説いた。みんな胸をふくらませてそれをきいた」。小山さんは「このような教えが『三つ子の魂百まで』と言うように、戦争協力につながっていったのではないか」と解説した。
光太郎研究の大家、北川太一さん(89)も式典に出席して、「戦争中の自分を『暗愚』と名付けたことは大事」と指摘した。「今また戦争に巻き込まれるかもしれない雰囲気が漂っている」と現代に重ねた。
光太郎は1931年8月9日、三陸へ向けて東京を出発し、女川港で作品を残した。町で養鶏業を営んでいた画家の貝廣(かい・ひろし)さんがそれを知り、有志と共に町内外の3721人から寄付金を集め、91年に女川港のそばに文学碑を建てた。
その後、毎年8月9日に碑の前で顕彰式典を開いている。公費に頼らない手弁当の式だ。貝さんは東日本大震災の津波で命を落とした。64歳だった。貝さんの妻や友人は遺志を継ぎ、中断させずに震災の年も式を開催した。津波で被災した碑は今、再建の日を待っている。
毎回、町の人々が詩の朗読も行う。今回は高校生らと一緒に女川小学校6年生も参加。「道程」を千葉あいかさん(11)、「花のひらくやうに」を鈴木明梨さん(11)、「山のともだち」を成田千夏さん(12)が読み上げた。「みんなが真剣に聞いてくれたので良かったです」と鈴木さん。
ギター奏者の宮川菊佳さんやオペラ歌手の本宮寛子さんも出演。本宮さんは強い風雨の音をかきけすようにソプラノを響かせた。
『朝日新聞』 2014.09.02
『広報おながわ』は月刊ですので、9月1日にでるだろうと思っていたところビンゴでした。すると、翌日には『朝日』さんの宮城版に載ったようです。この手の地方でのイベントは、少し経ってから報道されることが多いものです。『石巻かほく』さんは約1週間後に掲載されました。
『朝日』さんからは、今年3月に表参道で行われた「女川だより――あの日からの「家族の肖像」展」/トークイベント、同じく6月の二本松の智恵子のまち夢くらぶさんの女川訪問の際にお世話になった、石巻支局の小野智美さんが取材にいらしていました。そのわりに記事にならなかったので、ボツかな、と思っていましたが、昨日、大きく取り上げて下さったようです。
8月25日、BS日テレさんの「深層NEWS」という番組に、女川の須田善明町長がご出演なさったので、拝見しました(光太郎がらみの話はありませんでした)。その中で、「人口減少率日本一」というお話が出て、驚きましたが、その後、女川再生に向けてのコンパクトな街づくり的な構想について語られていました。「光太郎ゆかりの町」的な側面でも進めて行っていただきたいものです。
ついでに書くと、8月30日のBS朝日さんの「いま日本は」という番組では、レギュラーコメンテーターの中村雅俊さんによる女川訪問、「中村雅俊が巡る被災地の未来 故郷・女川 おもいで旅(1)」が放映されました。女川光太郎祭の会場でもある「きぼうの鐘商店街」でのロケもありました。(2)があるはずなのですが、まだ放映予定が出ていません。
また、BS12(トゥエルビ)さんの「未来への教科書~For Our Children~」という番組(8月中に4回放映されました)で、仮設住宅に暮らしていく中で放課後に勉強する場を失ってしまった子供たちのために始められた事業・女川向学館が取り上げられ、中学生が英語で自分達の故郷・女川町をプレゼンテーションするという活動が紹介されていました。
さらについでに書くと、地上波NHKさんで、近々、以下の放映があります。
特集 明日へ−支えあおう−「妻を探して海へ」
NHK総合 2014年9月7日(日) 10時05分~10時53分
去年秋、宮城県女川町のバス運転手・高松康雄さんは地元のダイバー高橋正祥さんを訪ねた。「妻をこの手で探したい」。勤め先の銀行で津波にあった妻は行方不明、手元に残るのは地震直後に妻から届いた「かえりたい」というメールだけだ。57歳になる高松さんは、高橋さんと厳しい訓練を重ねて潜水免許を取得。この夏、妻を探すため初めて海に潜る。手がかりは見つかるのか。訓練開始から1年、高松さんの妻への思いに密着する。
被災地からの声「宮城県女川町」
NHK総合 2014年9月8日(月) 26時15分~26時38分 =9月9日(火)2時15分~2時38分
被災地で出会った方々に、「いま一番言いたいこと」をうかがい、その思いをスケッチブックに書いてもらった上で、思いの丈を語っていただきます。今回は、宮城県女川町でお聞きした声をお届けします。
こういう番組を通し、女川の現状、町民のみなさんの今の思い等、しっかり受け止めて行きたいものです。
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月3日
昭和27年(1952)の今日、花巻郊外太田村の山小屋に、和賀郡藤根村(現北上市)の高橋峯次郎が訪れ、平和観音堂についての相談をしました。
高橋は光太郎と同年の明治16年(1883)生まれの元小学校教師。自らも日露戦争への従軍経験を持ち、その後は永らく教師を務めましたが、その間の教え子約500人が出征、約130人が遺骨で帰ってきたそうです。その霊を弔うため、寄付も集めず自費で観音堂の建設を発願、光太郎に本尊の彫刻を依頼しに来ましたが、あいにく光太郎は彫刻を封印している最中でした。代わりに光太郎は自作の詩「観自在こそ」を揮毫、高橋に贈りました。その書は石に刻まれ、現在も北上市後藤の、高橋の建てた観音堂境内に残っています。
詩は以下の通り。
観自在こそ たふとけれ
まなこひらきて けふみれば
此世のつねの すがたして
わがみはなれず そひたまふ
平安時代に流行った「今様」の形式による観音讃仰の内容です。高橋は「文字で表された仏様」と感激したそうです。
ちなみに高橋の元には、教え子たちからの7,000通を超える軍事郵便が届き、平成13年(2001年)には、それを紹介する岩手めんこいテレビさん制作の「土に生きる ~故郷 ・家族、そして愛~」が放映され、反響を呼びました。
500人もの教え子を戦地に送り、その3分の1が骨になって帰ってきたという過酷な体験から生まれた観音堂。「わが詩を読みて人死に就けり」と書いた光太郎にも、高橋の思いが我がことのように身に染みたのでしょう。高橋と光太郎、一個人によるものではありますが、どこぞの何とか神社などとは違う、これこそ戦没者追悼の顕現ですね。