昨日、東京は荒川区の町屋斎場に於いて執り行われた、光太郎の令甥にして高村光太郎記念会理事長、元日本広告写真家協会会長、髙村規氏の葬儀に参列してきました。
心のこもった、いいお式でした。
参列者を代表して弔辞を読まれたのは写真家の田沼武能氏。亡くなった規氏の先輩にあたられ、お若い頃の規氏のエピソードなどを交えた弔辞には、心を打たれました。
心を打たれたというと、司会の方によってご披露された渡辺えりさんの弔電もでした。渡辺さんは光太郎を主人公とした演劇「月にぬれた手」を作られたり、連翹忌にもたびたびご参加下さったりで、規氏とのご交流も深いものがありました。
祭壇の前には、規氏撮影の写真を使った書籍のうち、祖父光雲の作品集「木彫髙村光雲」(中教出版 平成11年=1999)、伯父光太郎の作品集「高村光太郎彫刻全作品」(六耀社 昭和54年=1979)、そして父豊周の作品集「鋳」(髙村豊周作品集刊行会 昭和56年=1981)が飾られていました。
本職の広告写真の分野以外に、智恵子も含め、こうした高村一族の造形作品を写真として遺して下さったことは、規氏の大きな業績と言えます。こうした作品集以外に、各種企画展の図録に使用した写真も、そのほとんどが、規氏によるものです。しかも、この彫刻にはこの写真、というふうにきちっと管理がなされており、それによって図録の編集も容易でした。そうしたデータは、ご長男の達氏が同じ写真家として規氏を助けられていたので、引き継がれていくと思われます。
また、いろいろな書籍に掲載された、光太郎の回想。親族の眼から見たそれは、他人には見せなかった光太郎の生の姿が語られ、非常に貴重な記録です。
同趣旨の回想は、平成23年(2011)刊行の雑誌『花美術館 Vol.18 特集 詩魂が宿る芸術 光太郎、智恵子』にも掲載されています。
また、現在、青森十和田市の十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんで刊行を進めている乙女の像60周年記念誌的なものにも、昨秋行った青森テレビの川口浩一アナウンサーによる規氏へのインタビューが掲載される予定です。
その他、短いものを含めれば、光雲、光太郎、豊周、智恵子に関する氏の文筆作品は枚挙にいとまがありません。こうした部分も、規氏の大きな業績と言えるでしょう。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月21日
明治10年(1877)の今日、東京上野公園で、第1回内国勧業博覧会が開会しました。
光雲、数え26歳。師匠高村東雲の名で出品した白衣観音が、一等龍紋賞を獲得、これにより、光雲の名が知られてゆくこととなります。