つい先だって、光太郎の令甥にあたられる高村規氏の訃報をのせましたが、お身内がまた亡くなられました。
規氏の妹さんの珊子さん(こちらはご存命です)のお嬢さんで、亜留さん。したがって、光雲の曾孫、豊周の孫、規氏の姪に当たられる方です。亜留さんからみれば、光太郎は大伯父です。8月14日、子宮頸がんで亡くなられたそうです。
昭和60年(1985)に高村亜留として歌手デビュー。アルバム2枚とシングル2枚を発表されました。そのお名前をご記憶の方もいらっしゃるでしょう。御結婚なさって、歌手を引退、茨城の方でお住まいだったとのことです。
当方、デビュー当時の『FOCUS』を持っております。「一途なとこがソックリね」――曾祖父は光雲、光太郎が大伯父という歌手、高村亜留」という記事が掲載されています。光太郎作の十和田湖畔の裸婦群像中型試作を前にしたお姿が載っています。ちなみに背景に写っている掛け軸も光太郎画、光雲の木彫も見えます。
ご本人のインタビューでは光雲や光太郎を「何にでも一途なところが似てるな!」、お母さんの珊子さんの談話は「やり始めたら人が何といおうと猪突猛進というのは高村の血筋ですね」だそうです。
2014/09/01追記 『FOCUS』の写真、「親族の間ではあまり好まれない画像」だそうで、削除しました。
昭和36年(1961)のお生まれだそうですので、誕生日が来ていれば53歳……若すぎるご逝去です。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月18日
昭和61年(1986)の今日、草野心平が郵便局発行の「高村智恵子生誕百年記念」はがきの解説文、「智恵子生誕百年に寄せて」を執筆しました。
第一部「智恵子のふるさと」(半沢良夫画)、第二部「高村智恵子紙絵」、おのおの額面40円の官製絵葉書5枚ずつ、計10枚のセットで発売されました。題字も心平の筆です。
「…これ、智恵子の形見…」といって夜の道で高村さんに渡された紙包みを、ホテルの部屋でひらくと、それはカーネーションの紙絵だった。私はそれを南京に持ち帰って、ウチの壁に飾ってゐた。そして敗戦につぐゴタゴタから、残念・無念いまは手元にはない。
けれども高村智恵子といふ全く特異としか言ひやうのない美しい存在の記憶は年を経る度に新鮮になる。無論紙絵の造形美は智恵子さん以外、他に類例を見ないものだが、二十代に描かれた樟の大木の油絵の一作を私は見たことがある。セザンヌを遠く聯想させるその作品は、この道一ト筋に進んでいったらどんな大物になっただらうか、内心ワクワクしたことを憶えてゐる。
智恵子さんのヂカの憶え出は沢山。大晦日にアトリヱに泊めてもらって元日のお雑煮。その他。その他。嗚呼。
短い文章ですが、智恵子を偲ぶ心情が切々と伝わってきます。