先週、『読売新聞』さんのサイト内の「大手小町」に「女性の美と健康」と題する記事が載りました。当方、読売さんは購読していないのでよくわからないのですが、紙面にも掲載されたのでしょうか。
 
光太郎の名が出ています。 

女性の美と戦争

  「新女性美の創造」。こうした見出しが読売新聞の家庭面に登場したのは1941年1月24日のこと。
 
 「美の標準は時代の社会性によって変化するものです。一路高度国防国家へ突進しようとするこの情勢の中で、婦人の生活はどうあらねばならないか。またその生活の中で女性の美しさはどう変わってくるかということも当然考えられねばなりません」と書かれている。医学、教育、科学などの専門家による座談会が掲載され、翌日からは彫刻家で詩人の高村光太郎や作家の宮本百合子なども、これからの女性の美のありかたについて語っている。
 
 1月21日付の読売新聞には、大政翼賛会による新女性美創定研究会が開かれたという記事が社会面に掲載されている。見出しは「翼賛型の美人 生み出す初の研究会」。記事では、研究会のメンバーである婦人科医の木下正一氏による「新女性美十則」というものが紹介されている。「顔や姿の美しさ それは飾らぬ自然美から」「清く明るく朗らかに」「大きな腰骨たのもしく」などで、「働く女性、子供を産む女性を美の基準にしたものを提唱」とある。
 
 それまではといえば、竹久夢二の絵に描かれたような、ほっそりして柳腰の女性が美しいとされていた。しかし、その後、戦争への道を突き進んでいくとともに、「柳腰撲滅論」まで登場するなど、戦争を支える「戦力」としての女性への期待が高まっていった。健康的な美というものが、実は女性を「戦力」に仕立て上げていくために使われたということだ。
 
 この話を初めて知ったのは、読売新聞の家庭面が2014年に100年を迎えるにあたって掲載された「家庭面の一世紀」という連載だった。詳しくは『こうして女性は強くなった。家庭面の100年』(中央公論新社刊)に掲載されているが、女性の美の基準がこうして国によって作られていくということに、大きなショックを受けた。
 
 女性が健康的であるのはいい。しかし、美の基準や美意識は個人によって異なるのが当然であって、国が決めていくような話ではない。そのことを、この時代の記事が教えてくれる。
 
 あす8月15日は終戦記念日。美やファッションも戦争の影響を受けたのだということを知っておきたい。
 
プロフィル
宮智 泉(みやち・いずみ)さん/読売新聞東京本社生活部部長/東京生まれ。国際基督教大学卒業。1985年、読売新聞社に入社。水戸支局、地方部をへて、生活情報部。2009年1~5月、カリフォルニア大学バークレー校ジャーナリズム大学院の講師を務める。編集委員としてファッションやライフスタイル、働く女性の問題などを担当し、2012年11月から現職。

 
冒頭で紹介されているのは、読売さんの昭和16年(1941)の1月24日から2月14日にわたり、断続的に掲載された座談会「新女性美の創造」です。以前にこのブログでも、オリンピックがらみの内容で少し紹介しました。
 
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座談会といいながら、最初の数回は出席者おのおのの長い談話です。連載中盤から通常の座談会記録になります。
 
光太郎の談話は1月29日と翌30日の2回に分け、「叡智なき美しさ 廃頽時代の玩弄物」のサブタイトルで掲載されました。
 
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他の出席者は東京美術学校助教授・西田正秋、文部省体育官・吉田章信、医師・竹内茂代、作家・豊島与志雄、同じく宮本百合子でした。
 
太平洋戦争直前の時勢ですので、やはりきな臭い発言がいろいろあります。光太郎にも。
 
今までは美しい身体などといつてもそれは西洋の女の身体の真似みたいなものを典型として考へてゐたのですが、これからは日本人の美を見つけ出さねばいけない。拵へ出す、想像することです。すると本当のものがそれについてくる。芸術はそんな力がある。
 
ものゝ考へ方を統一することを強調したい。そしてそれを健全にしたいものですね。
 
退嬰的なものを賛美する風潮を戒める、という意味ではいいのかもしれませんが、それも行き過ぎるとどこかの半島の独裁国家のようになってしまうのではないでしょうか。まさしく宮智さんのおっしゃるとおり「女性が健康的であるのはいい。しかし、美の基準や美意識は個人によって異なるのが当然であって、国が決めていくような話ではない。そのことを、この時代の記事が教えてくれる。 あす8月15日は終戦記念日。美やファッションも戦争の影響を受けたのだということを知っておきたい。」と思います。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月17日
 
昭和29年(1954)の今日、中野のアトリエを三河島のトンカツ屋、東方亭の主人と娘夫婦が訪れ、トンカツをお土産に貰いました。
 
東方亭は、戦時中から光太郎が懇意にしていた店です。
 
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こちらは昭和28年の『毎日グラフ』に載った写真です。光太郎の後ろ姿、いい感じですね。キャプションは以下の通り。
 
戦争中大政翼賛会の会合にしばしば引っぱり出された高村氏は 唯一の抵抗として夜は必ず三河島の居酒屋東方亭で酔った 時には泥酔の末 電信柱にぶち当たり自爆 歯を折ったこともあるらしい いまでもちょいちょい足を運び 亭主細田藤明氏夫妻や子供たちにはもちろん お客達の人気を集めている
 
同じページには、お嬢さんの明子さんも。
 
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うっかり去年の【今日は何の日・光太郎】と同じことを書いてしまいました。
 
追加します。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月17日
 
明治44年(1911)の今日、光雲が内閣から美術審査委員、文部省から第三部委員に任ぜられました。