テレビ放映情報です。
土曜スペシャル「東北縦断700キロ!名峰・名湯を巡る旅」
テレビ東京 2014年8月16日(土) 18時30分~20時54分
番組内容
渡辺正行と秋本奈緒美のドライブ旅、第4弾!ゲストは舟山久美子。今回の舞台は、日本の原風景が残る東北地方!宮城・松島をスタートし、世界遺産平泉~八幡平~田沢湖~乳頭温泉~白神山地~十和田湖~奥入瀬渓流~八甲田山を巡る!道中には夏限定の絶景や名湯、美味がズラリ!
出演者
渡辺正行、秋本奈緒美、舟山久美子 ナレーター キートン山田
ニッポン絶景街道 十和田・奥入瀬水神街道「大和朝廷も恐れたみちのく謎の文化とは」
BS朝日1 2014年8月21日(木) 22時00分~22時54分
番組内容
昨今話題となっている国内最大級の縄文集落跡が発見された三内丸山遺跡。ここ10年で発掘が進み、注目を浴びているこの場所で、かつて存在した縄文王国に思いを馳せます。その後、二人は八甲田山へ。緑深いブナの森を抜けると、神秘的な雰囲気の中にひっそりとたたずむ蔦沼が現れます。美しい景色を堪能した後は、十和田名物・バラ焼きで腹ごしらえ。鉄板で焼く牛肉の香ばしい香りが食欲をそそります。さらに、避暑地として人気のスポット、奥入瀬渓流へ。十和田湖から流れ出た水が長い歳月をかけ、千変万化の美しい流れを形成しています。その流れに沿って歩くと、緑豊かな樹木や大小様々な滝に癒されます。歴史散策の最終地点は十和田湖。約2千年前にできた美しい湖には、地元に根付く深い信仰がありました。みちのくの地に古くから伝わる文化や信仰の秘密に触れ、奥入瀬水神街道の絶景が物語る歴史を体験する旅です。
出演者
鵜川真由子(写真家)、梶本晃司(歴史街道案内人)
どちらも十和田湖が扱われます。少しでも光太郎に触れてくれればいいなと思っております。
【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月16日
昭和20年(1945)の今日、詩「一億の号泣」を執筆しました。
一億の号泣
綸言一たび出でて一億号泣す
昭和二十年八月十五日正午
われ岩手花巻町の鎮守
島谷崎(とやがさき)神社社務所の畳に両手をつきて
天上はるかに流れ来(きた)る
玉音(ぎよくいん)の低きとどろきに五体をうたる
五体わななきてとどめあへず 玉音ひびき終りて又音なし
この時無声の号泣国土に起り 普天の一億ひとしく
宸極に向つてひれ伏せるを知る
微臣恐惶ほとんど失語す
昭和二十年八月十五日正午
われ岩手花巻町の鎮守
島谷崎(とやがさき)神社社務所の畳に両手をつきて
天上はるかに流れ来(きた)る
玉音(ぎよくいん)の低きとどろきに五体をうたる
五体わななきてとどめあへず 玉音ひびき終りて又音なし
この時無声の号泣国土に起り 普天の一億ひとしく
宸極に向つてひれ伏せるを知る
微臣恐惶ほとんど失語す
ただ眼(まなこ)を凝らしてこの事実に直接し
荀も寸豪も曖昧模糊をゆるさざらん
鋼鉄の武器を失へる時
精神の武器おのずから強からんとす
真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ
必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん
荀も寸豪も曖昧模糊をゆるさざらん
鋼鉄の武器を失へる時
精神の武器おのずから強からんとす
真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ
必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん
この詩は、翌日の『朝日新聞』『岩手日報』に掲載されました。
ここには、戦時中、日本の正当性をひたすら信じ、天皇の神格をかたくなに疑わず、一途に国民の戦意昂揚に努めてきた光太郎の、目的を失った衝撃がよく表されています。
この後、花巻郊外太田村の山小屋での農耕自炊に入り、厳しい自然の中での生活が、光太郎をして自己の戦争責任の省察へと向かわせます。
同じ終戦の日の玉音放送を題材にした「終戦」という詩が書かれたのは、昭和22年(1947)。こちらは20篇から成る連作詩「暗愚小伝」の中の1篇です。
終戦
すつかりきれいにアトリエが焼けて、
私は奥州花巻に来た。
そこであのラヂオをきいた。
私は端坐してふるへてゐた。
日本はつひに赤裸となり、
人心は落ちて底をついた。
占領軍に飢餓を救はれ、
わずかに亡滅を免れてゐる。
その時天皇はみづから進んで、
われ現人神(あらひとがみ)にあらずと説かれた。
日を重ねるに従つて、
私の目からは梁(うつばり)が取れ、
いつのまにか六十年の重荷は消えた。
再びおぢいさんも父も母も
遠い涅槃の座にかへり、
私は大きく息をついた。
不思議なほどの脱卻のあとに
ただ人たるの愛がある。
雨過天青の青磁いろが
廓然とした心ににほひ、
いま悠々たる無一物に
私は荒涼の美を満喫する。
私は奥州花巻に来た。
そこであのラヂオをきいた。
私は端坐してふるへてゐた。
日本はつひに赤裸となり、
人心は落ちて底をついた。
占領軍に飢餓を救はれ、
わずかに亡滅を免れてゐる。
その時天皇はみづから進んで、
われ現人神(あらひとがみ)にあらずと説かれた。
日を重ねるに従つて、
私の目からは梁(うつばり)が取れ、
いつのまにか六十年の重荷は消えた。
再びおぢいさんも父も母も
遠い涅槃の座にかへり、
私は大きく息をついた。
不思議なほどの脱卻のあとに
ただ人たるの愛がある。
雨過天青の青磁いろが
廓然とした心ににほひ、
いま悠々たる無一物に
私は荒涼の美を満喫する。
「日を重ねるに従つて/私の目からは梁(うつばり)が取れ、」は、戦時中の光太郎をつき動かしていた軍部主導の国家倫理です。そこから自由になったことで「不思議なほどの脱卻」が訪れたというのです。
しかし、光太郎は他の多くの文学者のように、無邪気に民主主義を謳歌するというわけではありませんでした。同じ「暗愚小伝」の終曲、「山林」という詩では、以下のように謳っています。
おのれの暗愚をいやほど見たので、
自分の業績のどんな評価をも快く容れ、
自分に鞭する千の避難も素直にきく。
それが社会の約束ならば
よし極刑とても甘受しよう。
他の多くの文学者たちが、戦時中に書いた戦意昂揚の作品を「あれは軍の命令で仕方なく書いたものだ」と言い訳していたなか、光太郎はこのように述べているのです。こうした自らの過ちを潔く認め、さらに自らを罰することを実践する(花巻郊外太田村での過酷な独居生活、彫刻の封印は7年に及びました)、そういう点こそ、光太郎の素晴らしさだと考えられます。
こうした戦後の光太郎の内面に眼を向けず、光太郎自身が否定した戦意昂揚の作品のみに眼を向け、「御用詩人」と断じるのはどうかと思います。逆に「これこそ大和魂」などと、戦時中の光太郎を賛美するのは論外ですね。
晩年の光太郎は、「終戦」の末尾の「いま悠々たる無一物に私は荒涼の美を満喫する。」の句をよく色紙などに揮毫していました。まさに当時の心境をよく表す句だったのでしょう。
「一億の号泣」の方は、終戦直後のまだ自己省察が進んでいなかった頃に、頼まれて揮毫することがありましたが、のちにはこれも戦意昂揚の詩の延長としてとらえるようになりました。
花巻に「一億の号泣」の詩碑を建立する、という話が起こった時、そうした光太郎の意を汲んで、光太郎の実弟・豊周や、過日亡くなった令甥・規氏、北川太一先生らが抗議、一旦は勝手に建てられた碑が撤去されたという経緯があります。しかし、撤去された碑はいつのまにか勝手に元に戻されてしまっています。別に光太郎の汚点だから無かったことにしろ、というわけではありませんが、残念です。