詩人の宮尾壽里子様から、文芸同人誌『青い花』第78号をいただきました。
 
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宮尾様のエッセイ「断片的私見『智恵子抄』とその周辺(四)」が4ページにわたって掲載されています。「エッセイ」という条、「論考」と銘打ってもよい内容で、すばらしいと存じました。
 
智恵子が今で言う「肉食系女子」なら、という前提で展開され、タガメや食虫花に喩えていらっしゃいます。
 
タガメのように智恵子はがっちりと箍を光太郎に填めたつもりでも、背中にしがみ付いているのが精いっぱいだったのではないでしょうか。信念を持ち、なにもかもは女の言いなりにならない光太郎は、好き勝手に動くから振り落とされそうで気が休まらない。のんびりと絵を描き、自由に生きていたいのに、気がつけば光太郎に認めてもらいたいし、絵ももっと褒めてもらいたい。絵で評価されたいというのは智恵子の諦めることの出来ないミッション(使命)のひとつであったでしょうから。
 光太郎が彫刻家として認められていくように、智恵子も同じように高まっていくことを望んだのではないでしょうか。新しい男女のかたちとは全てにおいて平等であり、一心同体でなければならない。たとえ別々の生きものであったとしてもと。しかし必然的にその差は露呈するのです。経済的にも自立していなければ平等などないことを智恵子は知るでしょう。タガメで云えば毒を差し込んでも喰い尽くせない光太郎、食虫花でいえば呑み込みきれない大きな虫。智恵子はしかし、会津女の辛抱強さと忍耐でしがみ付くのです。
 
卓見と思いませんか?
 
いわゆるジェンダー論者の、「智恵子は光太郎の人身御供だった」的な糾弾する論調に辟易することが多くあります。結局、そういう論は、逆に智恵子の主体性とか内面とかを重視せず、結果としての統合失調症の発症や早逝しか見ていません。遺された智恵子の詩文が少ないのは確かですが、もっと智恵子の内面に踏み込んだ論がほしいものです(決して牽強付会ではなく)。
 
そうした意味では、宮尾様の玉稿、卓見です。
 
また、宮尾様、今年の連翹忌にご参加下さいました。その折の話や、その折に配布した資料などからも引用なさっています。運営している甲斐がある、と思いました。
 
ご入用の方、仲介いたしますので、コメント欄等からご連絡下さい(『青い花』さんとしてのサイト等は開設されていないようです。太宰治や壇一雄、中原中也らの創刊した雑誌なのに、惜しい気もします)。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月12日
 
平成11年(1999)の今日、埼玉県比企郡都幾川村(現・ときがわ町)の正法寺で、光太郎筆の般若心経を陶板焼成した衝立が除幕されました。
 
 
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同じ埼玉の川越市に本社がある光兆産業株式会社の代表取締役・渡瀬武夫氏の寄進で、陶板制作は大塚オーミ陶業さん、額の制作は全国建具組合連合会特選理事・技術委員長(当時)の原口竹春氏です。
 
もとになった般若心経は、大正13年(1924)、光太郎の弟、豊周の子供が夭折した際、光太郎が豊周に「これ、霊前に」といって持ってきたものです。のちに昭和37年(1962)の第6回連翹忌で、光太郎の七回忌記念に、大塚巧藝社さんによる複製が配布されました。
 
当方、平成12年(2000)頃に見に行きました。それから15年ほど経っていますが、現在はどうなっているのでしょうか。