詩人の間島康子様から、このほど刊行された文芸同人誌『群系』の第33号「<特集>昭和戦前・戦中の文学」をいただきました。
 
間島様の論考「高村光太郎 ―のっぽの奴は黙っている」が、10ページにわたり掲載されています。
 
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以前にいただいた第32号掲載の評論「高村光太郎――「好い時代」の光太郎」もそうでしたが、卓見です。
 
「のっぽの奴は黙つてゐる」は、昭和5年(1930)、雑誌『詩・現実』に発表された光太郎の詩。その2年前に東京会舘で開催された光雲喜寿の祝賀会での一コマをうたったものです。
 
ただ、間島様の論は、この詩の解釈が中心ではなく、様々な場面で「黙つてゐる」光太郎についてといった趣です。巨匠として世俗的名声を得た父に対しての思い、戦時には意に添わぬ戦争協力詩を書かされている思い、戦後にはそれらを書かされていたことに対する思いなどなど。
 
自己に厳しい光太郎は、そうした思いのうち、自分の暗愚に対しては発言するものの、他に責任を転嫁しません。その結果が、花巻郊外太田村での「自己流謫(るたく)」。「流謫」は「流刑」の意味です。
 
そうした光太郎の「自虐」「孤独」に注目した間島様の論考、卓見です。『群系』さんのサイトから入手可能です。
 
ところで間島様、今年の連翹忌にご参加下さいました。その折の話や、その折に配布した資料などからも引用なさっています。運営している甲斐がある、と思いました。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月31日
 
昭和27年(1952)の今日、花巻郊外太田村の山小屋に、実弟の豊周・君江夫妻、姪の珊子が訪ねてきました。
 
兄弟6年半ぶりの対面です。十和田湖畔の裸婦群像(通称「乙女の像」)制作のため、秋には上京することが決まっており、そのための打ち合わせ的な来訪でした。
 
豊周一家は昭和20年(1945)3月に、信州小諸に疎開。光太郎は「東京に天子様がいらっしゃる間は動かない」と、残ります。結果、4月には空襲でアトリエが全焼、やむなく5月には宮澤賢治の父・政次郎らの招きで花巻に移ります。
 
豊周の『定本光太郎回想』(昭和47年=1972 有信堂)の、この来訪時の記述が、笑えます。
 
 僕と家内と娘とが太田村の山小屋をたずねたのは、兄がいよいよ帰京するすこし前のことで、はじめ兄は、
「手紙で用が足りるから、わざわざ来なくてもいい。殊に君江さんの足では無理だ。」
と言って来ていたが、それでもこの頃開通したという自動車の地図など書いてある。口ではなんとか言っていても、内心は、一度連絡に来てもらいたかったのだ。
 
微笑ましいですね。