一昨日、福島は川内村の第49回天山祭りに行って参りました。昨日に引き続き、川内村レポートです。
当方、天山祭り会場の天山文庫は、初の訪問でした。
天山文庫は、昭和41年(1966)、それまでもたびたび川内村を訪れていた草野心平の宿泊施設として、村の人々が建ててあげたものです。心平は心平で、蔵書をここに置き、そのまま村に寄付しました。
天山文庫に上がっていく坂の途中に、「下馬」の文字が刻まれた石碑。心平の筆跡です。
酒樽を利用して作られた書庫も2棟ありました。この村で作られたどぶろくを愛し、「白夜」と名づけた心平にぴったりです。こちらは昭和44年(1969)の竣工。
内部には、雑誌がぎっしり。
さらに、天山文庫本体。
内部には、心平や、川端康成、棟方志功の書がかかっています。そして、やはり書庫。
光太郎の書籍もたくさんありました。また、この建物の設立委員には、光太郎の実弟・豊周も名を連ねています。かつて心平が、ここで過ごしていたと思うと、感慨深いものがありました。
小高い山の中腹にある天山文庫より下に、阿武隈民芸館があり、そちらも観て参りました。
当方、大きな勘違いをしておりました。「民芸館」という名前なので、よくある、現地の民俗資料などを展示してある施設だと思いこんでいました。たしかにそういう展示もあったのですが、それはほんの少しで、大半は心平に関する展示でした。なぜか、智恵子の実家である二本松の長沼酒造の貧乏徳利が、民俗資料に紛れて展示されていました(笑)。
こちらは昭和56年(1981)の完成。看板の揮毫も心平です。
心平の業績を語る上では、光太郎の存在は欠かせません。館内にズラリと並ぶ心平の著書のうち、光太郎が装幀や題字を担当したものがたくさんあります。また、光太郎に関する心平の著書もたくさんあり、さらに、飾られている写真パネルには、光太郎もたびたび写っていて、二人の結びつきの緊密さが見て取れます。
その後、秋に行われる心平忌日の集い「かえる忌」会場にもなっている、小松屋旅館さんに移動しました。
一昨年には、まだ子犬だった黒柴に、子犬が産まれていました。
こちらでは、二次会ということで、この春まで、川内草野心平記念館長を務められた晒名昇氏をはじめ、「かえる忌」で顔なじみになった方々が集い、しばし、歓談。
地元はもちろん、青森やら神奈川、当方と同じ千葉の方もいらっしゃいました。
心平が歿して約30年。今も多くの人々に敬愛されている様子が、よくわかりました。
帰りがけに撮った一枚。夕日が沈む渓流です。こんなにいいところなのですが、まだまだ原発事故による問題が山積しています。
訪れるだけでも、復興支援となります。ぜひ、足をお運び下さい。
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月14日
昭和6年(1931)の今日、新聞『時事新報』に、エッセイ「装幀について」が掲載されました。
一部、抜粋してみます。
今日多く流布する日本の書籍の装幀には遺憾ながら高度の審美を見る事が少い。純粋比例の美による装幀を私は望んでやまない。屢見かける文芸書のやうに、表紙にべたべた絵画を印刷したやうなものは児戯に類する。中には内容とかけ離れた宿場女郎の如き体裁のものさへある。新刊書に例を取つて述べることは遠慮するが、ともかく全体にもう一段抜け出してもらひたい。書店の店頭から無駄な悪趣味を一掃したい。書店の店頭を純粋比例の美で埋めたい。
阿武隈民芸館で、光太郎装幀の心平著書の数々を見ながら、光太郎の言に、首肯させられました。