昨日、横浜に行って参りました。
 
午前中、港の見える丘公園にある神奈川近代文学館で調べ物をし、午後はそこからほど近い南区の増徳院というお寺に行きました。元々は元町にあったお寺で、有名な外国人墓地はこのお寺の敷地だったそうですが、関東大震災の関係で、数㌔離れた現在地に移転したとのことでした。
 
こちらの境内に光雲作という聖観音菩薩像が鎮座ましましているというので、観に行った次第です。
 
港の見える丘公園から、外個人墓地やフェリス女学院などのある山手地区の高台の道を、カーナビに導かれて走ること数分、着きました。門前に駐車スペースが見あたらなく、「困ったな」と思ったところ、山門をくぐった境内が非常に広く、そちらに駐められました。
 
目指す観音像は、本堂の手前に独立した観音堂という堂宇があり、そちらにいらっしゃいました。
 
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像高約七尺。かたわらに立つ案内板に依れば、奈良薬師寺の聖観音像を模刻したものだそうです。非常に優美なお姿の鋳造仏です。
 
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大正12年(1923)10月の作とあり、まさに関東大震災の直後です。説明板には震災の文字はありませんが、このお寺の縁起にも震災が関わっており、無関係とは思えません。ただし、この地にこの像が建てられたのは昭和42年(1967)だそうです。しかし、この案内板を読んでも今ひとつなぜここにこれが、というのがよく判りませんでした。
 
失礼して像の裏手に回ってみると、台座にいろいろと銘が入っていました。
 
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「大正十三年四月」の文字。鋳造の成った年月でしょう。
 
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「顧問 高村光雲」。「顧問」という語から、工房作といったニュアンスが感じられます。
 
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さらに「池田鋳造所」の文字。
 
ただ、案内板を読んでも詳しいことが判りません。
 
光雲の仏像はあちこちで見られます。同じ神奈川の鎌倉は材木座の長勝寺さんの日蓮像、東京浅草観音の沙竭羅龍王像信濃善光寺の仁王門などなど。
 
ただし、なぜそこにこれが、という由来が今ひとつはっきりしないものが多く、そのあたりの調査も今後の課題の一つかな、と思っています。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月26日

昭和16年(1941)の今日、『都新聞』に散文「神経の浪費 中央協力会議の印象(上)」が掲載されました。
 
「中央協力会議」は大政翼賛会の肝煎りで始まったもので、各地方代表、各界代表の代議員が参加、挙国一致体制の確立に向け、さまざまな提案、議論がなされました。
 
前年12月に臨時会議が開催され、さらにこの年6月16日~20日の日程で第1回会議が開催されました。光太郎はこの第1回会議で「芸術による国威宣揚」について提案しています。さらに第2回会議はちょうど太平洋戦争開戦の日に重なり、途中で切り上げられました。この後も何度か開催されましたが、光太郎は第2回限りで委員を辞しています。
 
こういう会議の印象記であるにもかかわらず、光太郎の論調は否定的ですし、サブタイトルが「神経の浪費」、さらに翌日掲載の(下)に至っては「無駄な時間」というサブタイトルです。このサブタイトルは『都新聞』がつけたものかもしれませんが、大政翼賛会にケンカを売っているようにしか見えません。太平洋戦争開戦前には、まだこんなことが許されていたのですね。ちなみに『都新聞』は現在の『東京新聞』です。
 
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この文章、永らく初出掲載誌が不明で、『高村光太郎全集』には随筆集『某月某日』からの採録でしたが、数年前に『都新聞』に掲載を確認しました。