連翹忌ご常連で、詩人の豊岡史朗氏から、氏の主宰する詩誌『虹』の第5号を戴きました。
豊岡氏による評論「森鷗外と高村光太郎 ―北川太一著『観潮楼の一夜―鷗外と光太郎―』を読む―」が掲載されています。
題名にある北川太一著『観潮楼の一夜―鷗外と光太郎―』とは、平成21年(2009)に、北川太一先生の教え子の皆さん・北斗会の方々が出版にこぎつけたもので、平成19年(2007)11月、当時の文京区立本郷図書館鷗外記念室で開催された北川先生の講演に加筆修正されたものです。
「観潮楼」というのは鷗外が団子坂上の自宅につけた雅号。ここが文京区立本郷図書館鷗外記念室だったところで、現在は文京区立森鷗外記念館となっています。駒込林町の光太郎アトリエとは指呼の距離です。
「一夜」というのは大正6年(1917)10月9日の夜。昨年、このブログの【今日は何の日・光太郎】の10月9日の項に書きましたが、この直前に、光太郎が鷗外の悪口を言いふらしている、という話を聞きつけた鷗外が、光太郎を呼び出したのです。会見の様子については、昨年10月9日の項をご覧下さい。
『観潮楼の一夜―鷗外と光太郎―』は、この夜の出来事を中心に、光太郎と鷗外の交流を詳細に追っています。詩誌『虹』の「森鷗外と高村光太郎 ―北川太一著『観潮楼の一夜―鷗外と光太郎―』を読む―」は、『観潮楼の一夜―鷗外と光太郎―』の紹介、感想を軸に、さらに二人の留学体験、新たに開館した鷗外記念館などにも触れています。
ご入用の方、仲介いたしますのでご連絡ください。
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月22日
平成3年(1991)の今日、徳島県立近代美術館で、企画展「日本近代彫刻の一世紀―写実表現から立体造形へ―」が開幕しました。
茨城県近代美術館と2館巡回での企画展。光雲の「観音像頭部」(明治28年=1895)、光太郎の「裸婦坐像」(大正5年=1916)、「手」(大正7年=1918頃)をはじめ、二人と関係する彫刻家の作品から現代彫刻までがずらっと並びました。