一昨日から昨日にかけ、二本松の「智恵子のまち夢くらぶ」さんの研修旅行に混ぜていただいたりで、出かけておりました。そのレポートを今日明日で。
まず、メインだった女川訪問についてです。
昭和6年(1931)夏、新聞『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を書くために、光太郎は女川を含む三陸海岸一帯を約1ヶ月旅して歩きました。それを記念して、平成3年(1991)、当時の女川港の海岸公園に光太郎の文学碑が建てられ、翌年からその碑の前で、女川光太郎の会の皆様により、「女川光太郎祭」が開催されています。
会の中心だった貝(佐々木)廣さんが津波に呑まれて亡くなり、繁華街は壊滅状態になるなど、東日本大震災による甚大な被害を乗り越え、今も「女川光太郎祭」は続いています。一昨年、昨年は当方も参加して参りました。昨年からは講演もさせていただいております。
かつて「女川光太郎の会」の故・貝さんは二本松の智恵子追悼行事「レモン忌」にご参加なさり、「智恵子のまち夢くらぶ」の熊谷代表は逆に女川光太郎祭に行かれたこともあるとのことで、以前から交流がありました。「智恵子のまち夢くらぶ」さんでは、毎年この時期に光太郎智恵子ゆかりの地を訪ねる研修旅行を実施されていて、今年はそういうわけで女川に行かれたのです。双方と関わっている当方も混ぜていただきました。
さらに今年3月、東京は表参道で開催された「女川だより――あの日からの「家族の肖像」展」と、その関連行事としてのトークイベントがあり、そこでご縁を結ばせていただいた『朝日新聞』石巻支局の小野智美さんに、「「光太郎が取り持つ被災地同誌の縁」的な記事になりませんか」と、連絡を入れておいたところ、取材にいらしてくださり、早速、今朝の宮城版に記事が載ったようです。
女川の光太郎の碑に花束と涙 福島から21人
女川港のそばに横たわる高村光太郎の文学碑2基に15日、花が手向けられた。光太郎の妻、智恵子の出身地、福島県二本松市で顕彰活動をしている「智恵子のまち夢くらぶ」の21人が持参した。福島第一原発事故に日々、向き合うメンバーは、津波被害の現実を目の当たりにして「私たちも頑張ろう」と涙をぬぐった。
夢くらぶ代表の熊谷健一さん(63)は3基の文学碑ができた1991年以来、町で光太郎の顕彰活動を続けていた「女川・光太郎の会」事務局長の貝廣(ひろし)さんらと交流してきた。15日は、津波で命を落とした貝さんを思い、変わり果てた町で暮らす人々も思って「悲しみの中で一生懸命生きる方々に私たちが励まされます」と声を詰まらせた。
1基の詩碑は津波で流されて行方がわからない。残った2基の復興後の置き場所はまだ決まっていない。(小野智美)
「智恵子のまち夢くらぶ」の皆さんは、ほとんどが初の女川訪問ということでしたし、熊谷代表他、何度目かの訪問だという方も震災後は初めてということで、かつての繁華街が消滅してしまった女川に息を呑まれていました。
出迎えて下さった「女川光太郎の会」の佐々木英子さん、笠松弘二さん、そして小野記者を前に、熊谷代表は感極まって嗚咽しながらのご挨拶でした。
現在残った2基の光太郎碑がこちら。
上記記事の写真を撮る小野さん。
その後、かつて地元住民の100円募金で建てられた光太郎文学碑の精神を受け継ぐ、女川中学生徒の尽力で建てられた「いのちの石碑」(4月に建てられた4号碑)、仮設商店街「きぼうのかね商店街」を廻り、女川をあとにしました。
女川は訪れるたびに少しずつ復興が進んでいますが、ほんとうに「少しずつ」であるのがもどかしいところです。福島は福島で、昨日もバスの中での皆さんの会話に耳を傾けていると、「おらほの庭は今度ぁ、5センチの除染だない」といった発言が聞こえる状況です。
まだまだ「被災」は続いています。「復興」へのご協力を。
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月16日
明治34年(1901)の今日、新詩社茶話会に出席しました。
弱冠19歳(数え)の光太郎、既に与謝野夫妻にその才を認められ、雑誌『明星』の「文芸雑俎」欄責任執筆者の一人に推されました。