【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月9日
大正12年(1923)の今日、有島武郎が歿しました。
光太郎と有島は、同じ白樺派の一員。手紙のやりとりなどもあったのではないかと思われますが、光太郎から有島宛の書簡は見つかっていません(武郎より弟の生馬の方が、より光太郎に近かったのですが、生馬宛も見つかっていません)。
右の画像、左が武郎、右が生馬です。
逆に武郎から光太郎に宛てた書簡は残っています。この年3月1日付で、光太郎の代表的彫刻の一つ、「手」に関わるものです。この日、光太郎から武郎に「手」が贈られました。
今日は御制作『手』を態々お届け下さいまして有り難う御座いました。拝見して驚きました。手といふものがあんな神秘的な姿を持つてゐるものだとは今まで心付きませんでした。あれは又一箇の群像でもありました。見てゐれば見てゐる程それは不思議です。明日は面会日ですから早速部屋に飾つて見る人を驚かさうと楽しんでゐます。『手』といふ題で感想を書いてみたいと思つてゐます。何しろ本当にありがたう御座いました。永く永く襲蔵して御厚情を記憶します。
さらに詩「手」。こちらは3月9日に書かれました。
手
(高村光太郎氏の製作にかかる左手のブロンズを見入りて)
孤独な寂しい神秘……
手……一つの手……見つめていると、肉体から、霊魂から、不思議にも 遊離しはじめる手。
存在の荘厳と虚妄――神か無か。
おゝ見つめていると
凡てのものが手を残して消え失せて、
無辺際(むへんざい)の空間に、
ただ一つ残り在る手。
左の手を見つめろ。
今、おまえ自身の左の手を、これを読む時の光の下に、じっとみつめろ。
五つの指の淋しい群像、
何を彼らは考え、
彼らは何をするのだ。
指さすべき何が……握りしむべき何が………………
…………………………………
手は沈黙にまでもがいてゐる。
手……一つの手……見つめていると、肉体から、霊魂から、不思議にも 遊離しはじめる手。
存在の荘厳と虚妄――神か無か。
おゝ見つめていると
凡てのものが手を残して消え失せて、
無辺際(むへんざい)の空間に、
ただ一つ残り在る手。
左の手を見つめろ。
今、おまえ自身の左の手を、これを読む時の光の下に、じっとみつめろ。
五つの指の淋しい群像、
何を彼らは考え、
彼らは何をするのだ。
指さすべき何が……握りしむべき何が………………
…………………………………
手は沈黙にまでもがいてゐる。
しかし、その僅か三ヶ月後、武郎は自らの命を絶ってしまったのです。
のちに昭和31年(1956)、秋田雨雀が書いた「『ブロンズの手』を中心として」という文章から。
一九二三年(大正十二年)に不幸な出来事が私たちの周囲にあった。あの自由思想家で、クロポトキンの哲学に強く影響された私たちの尊敬する有島武郎君は恋愛のつまづきのために、あの立派な生涯を終えてしまった。その不幸な出来事の少し前から、彼が彼の机の上で絶えず愛撫していた彫刻が一つあった。それは説明するまでもなく、高村光太郎君の『ブロンズの手』であった。
有島武郎はこのブロンズの手を『虚空を指す手』と呼んでいた。そして、有島はあの追いせまった、短い生涯に絶えず、このブロンズの手の『人さし指』の『節くれだった』部分をほとんど毎日のように愛撫し、或は『哀撫』していたに相違なかった。
なぜならば、ブロンズの手の『人さし指』のあの部分だけは、『黄銅色』にかがやいていたからであった。彼の死後、私は『二つの手』という詩を雑誌『泉』に掲載した。それは『一つの手』は机上にとどまり、『一つの手』は虚無に帰したという意味であった。
私は有島生馬さんから送られたあの『ブロンズの手』と高村光太郎君のあの見事なホイットマンの『自選日記』を胸に懐きながら、あの惨虐無謀な侵略戦争の戦火の中を歯をかみしばりながら生き残って来た。
右の画像は、昭和14年(1939)、自作の「手」を見る光太郎です。もしかしたら亡き有島を偲んでいたのかもしれませんね。
ちなみにこの辺りの経緯を勘違いしたのか、「手」のモデルは有島武郎の手だ、などと書かれた噴飯ものの「論文」がまかり通っていますが、あくまでモデルは光太郎自身の左手です。
2021年追記 「手」に関わる新発見がありまして、以下もご覧下さい。
ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見。
ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見 その2-①。
ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見 その2-②。
2021年追記 「手」に関わる新発見がありまして、以下もご覧下さい。
ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見。
ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見 その2-①。
ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見 その2-②。