過日のブログでご紹介した光太郎書簡に関する続報が、『朝日新聞』さんの岩手版に出ました。

光太郎の手紙寄贈 神奈川の縁者

 詩人で彫刻家の故高村光太郎の手紙を所有する神奈川県在住の進(しん)慶子さん(66)が4日、花巻市太田の高村光太郎記念館を訪れ、手紙を寄贈した。館を運営する光太郎記念会の高橋邦広理事は「貴重な資料をありがとうございました」と喜んでいた。
 進さんは、光太郎の実弟で鋳金家の故高村豊周(とよちか)の離婚した妻の故和田美和さんの縁者。その美和さんに光太郎が出した手紙1通で、書かれた日が1933年8月24日と確認した高橋さんは「よく81年も保管しておいてくれました」と感謝の言葉を述べた。
 手紙には「あなたがどうかして此(こ)の悲(かなし)みから早く脱却される事をのみひたすら祈ります」などと、弟と離婚した美和さんをいたわる記載があり、進さんは「光太郎の優しい面がわかる内容でもあり、捨てないでいた」と話した。
 光太郎は、智恵子と1914年に実質的な結婚生活に入り、手紙が書かれた前日の8月23日に婚姻届を出した。これは精神的に不安定な智恵子を法的に守るための対応とされ、翌日には2人で旅行に出かける慌ただしい中で、弟の離婚した妻へ手紙を書いたのは、2人の女性の境遇に「いろいろ重なるものを見たのではないか」と記念会は推測していた。
 進さんは、豊周さんからの手紙も1通寄贈。「ともかくこれで手紙が落ち着くところに落ち着いた」とほっとしていた。
 両方の手紙は高村家のプライベートな部分も多く含まれており、展示について記念会は「関係者とよく協議して決めたい」と話している。
 
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ついでに第一報での誤りについての訂正記事も出ました。
 
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光太郎書簡は、現在までに3,400通ほど見つかっていますが、まだまだ埋もれているものがたくさんあるはずです。
 
筑摩書房刊行の『高村光太郎全集』第21巻には、書簡宛先の人名索引が載っていますが、あるべきはずの名前が抜けていたりします。たくさん手紙を送っていたはずの人の名がないということで、その人あての書簡が見つかっていないのです。例えば有島兄弟、石井柏亭、志賀直哉、梅原龍三郎、岸田劉生、黒田清輝、高田博厚、深沢省三・紅子夫妻、吉井勇などなど。また、与謝野晶子や荻原守衛、武者小路実篤、川路柳虹、佐藤春夫などにあてたものは、それぞれ1~2通ずつしか見つかっていません(晶子、武者、佐藤あてはここ数年で見つけましたがそれでも1通ずつです)が、もっともっとあったはずです。
 
受けとった人自身が処分してしまったか、関東大震災や太平洋戦争などで焼失してしまったか、それとも人知れず眠っているかと言ったところですね。
 
新たな書簡により、少しずつ空白が埋まり、光太郎の新たな一面が見えてくるものです。今回報道されたものもそうですが、 こんな人にも手紙を送っていたのか、というケースもあります。ここ数年で見つかって、『高村光太郎全集』に掲載されていないものとしては、伊藤静雄、谷川俊太郎、佐々木喜善(柳田国男に『遠野物語』の内容を語った人物)、稲垣足穂、マチスなど。また、あるべくしてあったという宛先のものもここ数年でけっこう見つかっています。永瀬清子、中山義秀、平櫛田中、石井鶴三、高祖保など。
 
それから、一通の手紙で、それまで特定できていなかった年譜上の出来事の日付が確定することもあります。
これも最近見つけた例でいうと、大正元年(1912)、智恵子と過ごした銚子犬吠埼から帰京したのが9月4日だったこと、昭和30年(1955)、花巻から東京中野に住民票を異動したのが6月1日であったことなどが、それぞれ1通の書簡の発見により判明しました。
 
幸い、最近、光太郎の新たな書簡が見つからない、という事態にはなっていませんが、本当にまだまだ眠っている書簡がたくさんあるはずです。ご協力をお願いします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月6日

大正8年(1919)の今日、腸チフスで入院していた駒込病院から退院しました。
 
約1ヶ月の入院で、この退院の日付も最近見つかった6月14日付の田村松魚あての書簡により特定できました。
 
御手紙ありがたく拝見しました。六日にやつと退院しましたが筆をとるのがひどくおつくうだつたので まだまるで友達にもその事をしらせず失礼してゐました。