昨日、大阪は堺市で行われました与謝野晶子命日の集い、第32回白桜忌に行って参りました。今日明日と2回に分けてレポートします。
一昨日、当方の住む千葉県香取市から夜行高速バスに乗って大阪を目指しました。千葉交通さんのバスで、銚子発大阪なんば高速バスターミナル行きです。この便は京都まで利用したことが3回ほどありますが、終点の大阪まで乗ったのは初めてでした。時間はかかるのですが、経費節減のためです。
事前に調べたところ、終点のなんば高速バスターミナルは御堂筋に近いことがわかりました。御堂筋といえば、つい先だってのブログでもご紹介しましたが、「御堂筋彫刻ストリート」ということで、内外の彫刻作品が多数設置されています。光太郎作「十和田湖畔の裸婦群像のための中型試作」も、通称の「みちのく」という名で並んでいます。約20年ぶりに見に行ってみました。
場所は地下鉄御堂筋線の淀屋橋駅近く。高速バスターミナルからは、歩いていけない距離ではありませんが、時間の都合もあり、地下鉄を使いました。
続いて鉄道を乗り継いで、JR阪和線堺市駅へ。次なる目的地は駅前にある堺市立文化館。こちらは「与謝野晶子文芸館」と「アルフォンス・ミュシャ館」が併設されています。こちらで高村光太郎研究会会員で、大阪在住の西浦基氏と合流、展示を拝見しました。
晶子文芸館は3階。晶子の自筆資料、著書、遺品などが並び、パネルで年譜や解説がなされていました。
昨秋、山梨県立文学館さんの企画展「与謝野晶子展 われも黄金の釘一つ打つ」を拝見して参りましたが、そちらと同一の出品物もあり、懐かしく感じました。
また、「コーナー展示」ということで、現在は「与謝野晶子と石川啄木」という一角もありました。啄木も光太郎同様、新詩社で与謝野夫妻に世話になっていますし、光太郎とも面識がありました。
啄木が早逝してだいぶ経ってから、昭和6年(1931)に啄木ゆかりの函館に旅行した晶子の歌「なつかしき函館に来て手に撫づる亡き啄木の草稿の塵」が展示されており、感動しました。
4階はミュシャ館。アルフォンス・ミュシャは、チェコ出身のアール・ヌーボーの画家で、日本でも根強い人気があります。当方、自宅兼事務所の執務室に複製を飾っています。
調べてみたところ、『高村光太郎全集』で、一ヶ所だけミュシャの名が出て来ました。明治44年(1911)の『白樺』に載った「消息――『白樺に』――」と題する散文です。
――「白樺」毎号ありがたく存じます。世間の例にならつて「六号」を拝読しました。中にMuchaの事がありましたね。此はフランスの画かきで、重に装飾画をかく奴です。此奴の画いたサラ、ベルナアルのLorenzaccioやLa Samaritaineの「アフイシユ」は有名なものです。写生画や模様や図案を集めた本があります。かなり高価です。京都の田中喜作君が持つて居ませう。心づいたまま一寸。
光太郎、「此奴」呼ばわりしています(笑)。
続いて、晶子文芸館にほど近い堺女子短期大学さんに行きました。こちらには晶子の詩碑が建っています。
智恵子がその表紙絵を描いた『青鞜』創刊号(明治44年=1911)に寄せた有名な詩「そぞろごと」の一節が刻まれています。『青鞜』主幹の平塚らいてうは、届いたこの原稿を読み、いたく感動したとのこと。もしかすると智恵子あたりも心揺さぶられたのではないかと想像されます。
さらに西浦氏に車を出していただき、晶子生家跡に行きました。
晶子の生家、鳳家は紀州街道沿い、大道筋という昔のメインストリートにあった「駿河屋」という菓子店でした。建物は現存しませんが、跡地に碑が建っています。これも有名な「海こひし潮の遠鳴りかぞへては少女となりし父母の家」の歌が刻まれています。
さらに近くに大道筋の説明板もあり、何気なく見てみると、光太郎が在学中、東京美術学校の校長だった正木直彦の名が記されていました。正木もこの界隈の出身とのことで、それは知らなかったので、驚きました。
白桜忌は午後1時半からということで、まだ時間があったため、光太郎とは直接関係ありませんが、堺市内の名所巡りを少し。
千利休の屋敷跡、面積的には世界最大の墳墓、大仙古墳(伝・仁徳天皇陵古墳)など。
しかし、大仙古墳は上空からは見えないので、その規模がよくわかりませんでした。
函館五稜郭は近くに五稜郭タワーがあり、足下に五稜郭の全貌が見えるようになっていて、特徴的な星形がよくわかります。
そういう展望塔のようなものがあればいいのに、とも思いましたが、さすがに天皇陵を足元に見るというのは不敬、という考えなのかも知れません。
いよいよ白桜忌会場の覚応寺さんに向かいました。続きは明日。
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月30日
昭和25年(1950)の今日、朝日新聞社から木村艸太著『魔の宴』が刊行されました。
木村艸太(荘太)は武者小路実篤の「新しき村」などに参加した作家。光太郎とも親しかった画家・木村荘八の実兄です。明治末に吉原の娼妓・若太夫をめぐって光太郎と恋のさや当てから決闘未遂騒ぎまで発展しました。
『魔の宴』は木村の自伝的小説で、光太郎と三角関係となった「パンの会」当時の話など、当時を知る上で、一級の回想です。