連翹忌ご常連で、元・日本女子医大図書館にお勤めだった細井昌文氏から、今月、新潟で発行された冊子を戴きました。
題は『洗心』第24号。発行元は糸魚川市歴史民俗資料館《相馬御風記念館》内の「御風会」さん。詩人の相馬御風の顕彰団体のようです。
細井氏ご執筆の「御風と高村光太郎」が2ページにわたり掲載されています。
相馬御風は光太郎と同じ明治16年(1883)、糸魚川の生まれ。明治末に与謝野鉄幹・晶子の新詩社に加わり、そこで光太郎と知り合っています。
明治36年(1903)、同37年(1904)の光太郎日記には御風の名が記されている他、戦時中に御風に宛てた書簡2通、さらに御風に触れた随筆「彫刻その他(二)」(昭和19年=1943)が『高村光太郎全集』に収録されています。
また、御風の長女で、智恵子と同じ日本女子大学校卒の文子も本郷の東京帝大史料編纂所に勤務し、光太郎の元を訪れたりしています。『高村光太郎全集』には文子宛の書簡(御風追悼の内容・昭和25年=1950)も掲載されています。
細井氏の論考では、御風と光太郎のつながりを解くいくつかのキーワードが挙げられています。
その一つ、「口語自由詩」。
光太郎が本格的に詩作を始めるのは、海外留学から帰朝後の明治43年(1910)のことです。初めのうちは文語詩が多いのですが、徐々に口語自由詩に移行、大正に入るころにはほぼ文語詩は見られなくなります。
一方の御風は光太郎留学中の明治41年(1908)にはすでに口語自由詩を発表しています。他にも口語自由詩に先鞭を付けたのは川路柳虹、三木露風、人見東明など。帰朝語の光太郎はそうした先例に触発されて口語自由詩に傾いていったのだと思われます。
また、戦時の体制協力という点もキーワードの一つです。光太郎は文学者の統制団体、日本文学報国会の詩部会長を務め、御風も会員に名を連ねています。光太郎には膨大な数の戦争詩があり、御風もその売上金を海軍省に献金するために発行された『辻詩集』(昭和18年=1943)に作品を寄せるなどしています。もっとも、こうした活動は当時の殆ど全ての文学者に当てはまることですが……。
細井氏は、おそらくこの頃に一時途絶えていた光太郎と御風の交流が復活したのではないかと論じられています。また、戦後の光太郎の花巻郊外太田村での隠棲にも触れ、「新しき村」の武者小路実篤や、三里塚に隠棲していた水野葉舟などとともに、既に大正期に糸魚川に帰住していた御風の影響も見て取れるとしています。首肯できる御意見です。
ところで、惜しむらくは、おそらくそれなりに数があったであろう御風からのものを含め、戦時中までの光太郎宛の書簡がほとんど残っていないこと。それらは多くの彫刻原型などとともに、昭和20年(1945)の空襲で灰燼に帰していまいました。戦後のものはほとんど未整理のまま某所に保管されているのですが、それらの整理も今後の重要な課題です。
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月22日
昭和35年(1960)の今日、福島二本松の霞ヶ城跡に、光太郎詩碑が建立除幕されました。
霞ヶ城敷地内に、元々あった「牛石」という石に3枚のブロンズパネルを埋め込んだ碑です。
表面には光太郎詩「樹下の二人」の一節「あれが阿多多羅山 あのひかるのが阿武隈川」が、裏面には光太郎詩「あどけない話」の一節「阿多多羅山の山の上に 毎日出てゐる青い空が 智恵子のほんとの空だといふ」が、さらに草野心平による碑陰記がそれぞれ刻まれています。
光太郎の筆跡は、智恵子と交流のあった二本松出身の彫刻家、斎藤芳也が木彫で原型を作りました。
「あれが阿多多羅山……」の部分の拓本、当方書斎にインテリアとして掲げてあります。