5/15(木)、岩手花巻で行われた第57回高村祭。地元紙に報道されましたのでご紹介します。 

光太郎しのび朗読や合唱 花巻で高村祭

『岩手日報』
 花巻市で晩年を過ごした彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)を顕彰する第57回高村祭は15日、同市太田の高村山荘詩碑前で開かれ、郷土ゆかりの先人をしのんだ。
 花巻高村光太郎記念会(佐藤進会長)などが主催。太田小児童の楽器演奏、西南中の合唱に続き、花巻北高の遠藤鮎喜(あゆき)君(3年)と佐々木愛美さん(2年)が「晴天に酔う」「レモン哀歌」を朗読した。
 花巻高等看護専門学校1年の佐藤百(もも)さん(18)は1945年8月の花巻空襲時に、危険を顧みず負傷者救護に尽力した看護師らをたたえた詩「非常の時」を情感を込めて読み上げた。佐藤さんは「戦争作品はあっても、看護師などに目を向けた詩は少ない。意味を調べながら練習した」と話した。
 同看護専門学校のコーラス披露もあり、訪れた市民ら約300人とともに光太郎に思いをはせた。
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光太郎精神 現代に 地元学生ら詩朗読、合唱 名前の由来は光太郎の妻 名付け親に持つ末盛千枝子さん

『岩手日日』
 花巻市ゆかりの詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)を顕彰する高村祭が15日、同市太田山口地区の高村山荘詩碑前で開かれた。地元の学生たちによる光太郎作品の朗読や、編集者の末盛千枝子さん(八幡平市)の特別講演などを通じ、参加者が偉人の足跡に思いをはせた。

 光太郎が東京から花巻に疎開してきた日を記念し、花巻高村光太郎記念会と高村記念会山口支部が毎年主催。57回目の今年は、詩集「道程」刊行100周年が重なった。

 各地から450人以上が参加。開会に先立ち光太郎の遺影が飾られた詩碑に太田小2年生の中島流星君と石川澄花さんが献花し、三彩流新茗会新田社中が献茶して開会。参加者全員が詩碑に刻まれた「雪白く積めり」を朗読した。

 続いて地元の学生たちが出演し、新緑に包まれた会場で光太郎の残した言葉を響かせた。太田小2年生21人は光太郎と交流のあった旧山口小の校歌を元気いっぱい歌ったほか、「かっこう」をピアニカで演奏、光太郎の詩「案内」を暗唱した。

 西南中学校1年生49人は「心はいつでも新しく、毎日何かしらを発見する」という光太郎の言葉を取り入れた精神歌を合唱。県立花巻北高校の遠藤鮎喜君(3年)と佐々木愛美さん(2年)、花巻高等看護専門学校の佐藤百さん(1年)による光太郎の詩の朗読後、同校1年生40人が「最低にして最高の道」「リンゴの詩」「花巻の四季」のコーラスを披露した。

 特別講演では、本県出身の彫刻家・故舟越保武氏の長女で、光太郎を名付け親に持つ編集者の末盛千枝子さんが、「私にとっての高村光太郎」と題して光太郎との縁を振り返った。

 末盛さんの父は光太郎が訳した本「ロダンの言葉」を読んで彫刻家になろうと決心した経緯があり、29歳の時に初めての娘である末盛さんが東京で生まれた時、全く面識のない光太郎を突然訪ねて名前を頼んだという。

 光太郎は妻智恵子を亡くしてから3年しか経っていない頃で、「女の名前は智恵子しか浮かばないけれど、智恵子のような悲しい人生になってはいけないので字だけは替えましょうね」と言って名付けてくれた-と末盛さんは聞かされてきた。

 末盛さんは「自分はそんな大切な名前に値しない。父が無理難題を言って申し訳ない」と感じてきたが、「最近になって父は彫刻家としてやっていく励ましをもらいたくて高村さんを訪ねたのだろう、高村さんは大変さを身に染みて分かっていたから、若い彫刻家の頼みを断れなかったのではと思えるようになった」と心境の変化を語った。

 盛岡にいた当時、光太郎から「おじさんのことを覚えていてください」と言われたことにも触れ、「父が彫刻家になることが高村さんの励ましに応えることだった。弟2人(舟越桂氏、舟越直木氏)も彫刻家になり、曲りなりにも応えられたのでは」と思いをはせた。
 
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それから、撮ってきた写真を整理していたら、過日のブログに載せ忘れていたものがありましたので、ついでに。
 
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左はポスター、右は会場正面に掲げられた光太郎肖像写真です。
 
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会場のゴザの上を飛び跳ねていた蛙。思わず「心平先生、いらしてたんですか?」と呼びかけてしまいました(笑)。
 
今日は福島二本松の智恵子生誕祭に行って参ります。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月18日
 
昭和29年(1954)の今日、中野のアトリエに入れるベッドの購入契約をしました。
 
メーカーはエムプレス。光太郎、約2年後に、このベッドの上で終焉の時を迎えました。
 
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