先日のブログでご紹介した、岩手花巻で開催される「第57回高村祭」。いよいよ今週となりました。
昭和20年(1945)から同27年(1952)にかけ、光太郎が独居自炊の生活を送った花巻郊外・旧太田村山口の山小屋が「高村山荘」として今も保存されています。昨年、山荘近くの花巻市立民俗資料館だった建物を「高村光太郎記念館」にリニューアル、仮オープンしました。
「高村山荘」「高村光太郎記念館」とも、花巻の一般財団法人・花巻高村光太郎記念会さんで管理をなさっていて、「高村光太郎記念館・高村山荘」のタイトルでHPも開設されています。「高村祭」もこちらの主催です。
「高村光太郎記念館・高村山荘」のHPで、「高村祭」のチラシがPDFでアップされています。
今回の「高村祭」で特別講演をなさる編集者・絵本作家の末盛千枝子さんの詳細なご紹介、交通案内も。
午前9時40分発で、JR東北本線花巻駅西口から無料のシャトルバスが出ます。それ以外に路線バスはありませんので御注意下さい。
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月11日
昭和21年(1946)の今日、連作詩「暗愚小伝」の制作を始めました。
この日の日記に以下の記述があります。
夜は読書せず。詩の事。「余の詩を読みて人死に赴けり」を書かんと思ふ。
のちに少し題名を変え、次の詩の断片が書かれました。
わが詩をよみて人死に就けり
爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
電線に女の大腿がぶらさがつた。
死はいつでもそこにあつた。
死の恐怖から私自身を救ふために
「必死の時」を必死になつて私は書いた。
その詩を戦地の同胞が読んだ。
人はそれをよんで死に立ち向かつた。
その詩を毎日よみかへすと家郷へ書き送つた
潜行艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。
しかし、結局この詩は未完のままお蔵入りに。代わって、20篇から成る連作詩「暗愚小伝」へと発展していきます。
「暗愚小伝」は翌年7月、臼井吉見が編集していた雑誌『展望』に発表されました。戦時中、国策協力の詩を乱発していた光太郎が、敗戦後、自分の詩が多くの前途有望な若者を死地に追いやった反省から、「自己流謫(るたく)」……自分で自分を流刑に処するという境地に至って書かれました。20篇の連作詩で、幼少期からその当時に至る自己の精神史を語っています。
光太郎の太田村での7年間の「自己流謫」に思いを馳せながら、今年も花巻光太郎祭に行って参ります。